「南無アッバ」を生きる ホーム » 福音と自由律 »キリストを食べる--ロゴスを味わう(2)

キリストを食べる--ロゴスを味わう(2)  

カトリックの礼拝にあたるものはミサという祭儀である。
ミサの中心は聖体拝領である。それは教義から言うと、ホスチュアというパン(ふつうは病人でも食べやすいウエハース)がミサの中で聖変化し、なんとキリストの体になってしまうのだ。

ここまできて、とてもばかばかしくてついていけないという向きもあるだろうが、ともかく教義上はそういうことになっている。

聖変化の(司祭の)ことばによってキリストは、パンの外観のもとに、祭壇上に自ら現存なさいます。(ミサ式次第『キリストと我等のミサ』)

 聖書での根拠は『マタイ』『マルコ』『ルカ』三つの福音書(これを共観福音書と言う)に共通する、あのダビンチの絵で有名な「主の晩餐」のシーンである。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言った。「取りなさい。これはわたしの体である。」(マルコ一四・二二他)

 この「パン」をめぐる解釈はカトリックとプロテスタント、あるいはプロテスタント宗教改革者の間でも大論争になった。

つまり、「パン」を聖変化した「キリストの体」そのものと見るか、それともキリストの「しるし」として解釈するか、である。
しかしここで聖体論を展開するつもりはない。
むしろわたしの興味は、「キリストの体」を食べるときの感覚の問題である。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしの 内にいつもおり、わたしもまたその人の内にいつもいる・・・・わたしを食べる人はわたしによって生きる。」弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「これは実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか。」( ヨハネ六・五六、五七、六十)
関連記事


category: 福音と自由律

thread: 聖書・キリスト教

janre: 学問・文化・芸術

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/403-c53e9ea7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop