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海藤抱壺キリスト教俳句瞥見(二)  

 抱壺に関しては木下信三氏が『層雲』に発表された綿密な調査論文(s59年7月号以降)が あるが、そのキリスト信仰の内実となると、事の性質上それを知ることはきわめて難しい。しかも、前号に私が仮に定義した「キリスト教俳句」の概念――作品自体からキリスト教に関わると推察できるキーワードを持つ俳句――に従えば、抱壺の〝キリスト教俳句〟はきわめて少ないのだ。

 ここで、俳句の中にわざわざ〝キリスト教俳句〟などという分類を置くこと自体に抵抗を感じる向きがあるかもしない。それはおそらく俳句にドグマを持ち込む宣教文学的要素に対する嫌悪感からだろう。エリオットは、たいていの宗教詩がよくない理由は、「信心深い不正直」にあると指摘している。つまり、「自分が感じるようにではなく、感じたいように書く」ために、ドグマを述べるに留まってしまうということなのだろう。この「不正直」の臭みが付きまとうかぎり、文学としての評価は低くなる。

 小説の方ではどうだろうか。たとえば、遠藤周作は布教のために小説を書いているのではない、と言うが、「私の小説を読んで、結果として、キリスト教に魅力を感じてくれたら、私もいいなとは思うけど、無理やりにどうです、きれいでしょう、立派でしょうというのは、文学をゆがめるからしませんよ。・・・・」(『私にとって神とは』傍点引用者)と付け加えている。しかし、氏がカトリックであることを知らずに「ぐうたら」シリーズを読んで面白がっている読者は多いはず。一方、三浦綾子ははっきりとキリスト教宣教の意志を明言して、小説を書いている。その他現在活躍しているキリスト者小説家として、曽野綾子、三浦朱門、高橋たか子、大原富枝等々がいるが、彼らの作品がキリスト教徒でない人々に広く受け入れられていることは周知のとおりである。

 こうした現象は散文形式が、キリスト者でない日本の一般読者の心情に訴える現実描写の中に、宗教的信念を折り込むことを可能にしているからではないだろうか。言葉を凝縮する詩や、いわんや俳句・短歌となれば、自分が信じたいことと現に感じていることとのギャップにどうしても苦しまなければならない。

 日本のキリスト者で信仰を述べながら、かつ文学的であることに成功した稀有な例として、八木重吉を上げることができる。

    
  私は
  基督の奇蹟をみんな詩にうたいたい
  マグダラのマリアが
  貴い油を彼の足にぬったことをうたいたい
  出来ることなら
  基督の一生を力一杯詩にうたいたい
  そして
  私の詩がいけないとこなされても
  一人でも多く基督について考える人が出来たら
  私のよろこびはどんなだろう        
(S1年 ノートA)
                        
 しかし重吉にしても、信仰を直接うたったものよりは、自然を前面に出した作品の方が完成度において優れていることを彼自身も知っていたのだろう。そのことは、生前発行の処女詩集『秋の瞳』から死後出版された第二詩集『貧しき信徒』へ至る注意深い自選の様子からもうかがえる。

    素朴な琴
  この明るさのなかへ
  ひとつの素朴な琴をおけば
  秋の美くしさに耐へかね(て)
  琴はしずかに鳴りいだすだらう        
(『貧しき信徒』)
                        
 彼の短詩傾向については、白鳳社版『八木重吉詩集』の解説で鈴木亨氏が当時の短詩流行の風潮に触れた上で、『秋の瞳』所収の、
      
    夜の薔薇(そうび)     
  ああ
  はるか
  よるの
  そうび
  薔薇


を例に上げ、「当時俳壇に広く行なわれていた自由律俳句の気息も感じられる。とくに・・・・尾崎放哉――そのうた口に通うものを、彼(重吉)の詩を通観して覚えずにいられない。」と指摘していることに注目したい。

こうした重吉と自由律俳句の関係について私は数年前、キリスト教文学研究者の山根道公氏から、重吉が具体的に自由律俳句の影響を受けていたかどうかはわからない、としながらも、「重吉の∧詩∨と題して自分の詩観を述べた、「万葉の調律も必要でない/芭蕉の調律も必要でない/私自らに必然なものだけが尊い/私はどんな風にうたってもかまわない/ただ私の道は一つの外に無い」という詩がありますが、影響のあるなしではなく、この重吉の到達した詩観そのものに、何か「自由律俳句」の根底と通じるものがあるのではないかと思うのです。」とのお手紙をいただいたことを付記しておく。

 同時代を生きた抱壺(1901~1940年)より十年程も短命だった重吉(1898~1927年)の作品傾向は晩年、同じ肺結核という死に至る病の過程でほとばしるままに、より簡潔で短く、より直接に信仰をうたうようになっていく。

  ほんとうに
  かんげきがさえてくれば
  みじかいことばにもられてくる
  (T14年 詩稿)
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