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抱壺キリスト教俳句瞥見(一)  

 成人してからキリスト者となり、さらに「層雲」の門を叩いた私にとって、海藤抱壺は、彼の作品を知りさらに昭和九年に発行された生前唯一の句集『三羽の鶴』に次のような<あとがき>があることを知るに及び、最も関心の深い俳人となった。

 「・・・・私は又信仰に入つてゆきたい人間でもあった。然し、十七八の頃より聖書に親しんできたその信仰は、求めて徹し得ざる悩みに終始した――俳句に據つて神に到らう――私は独りさう思ふやうになつた。句作に研ぎ澄した詩。魂の極みに、かの預言者エリヤの聴いた「静かなる細微き(ホソ)き声」は響いて来ないであらうか・・・・。とまれ、私はこの儘の姿で、句を作る心境に於いて救はれるのでなければ救はれないに違ひない。」

 ここに出てくる、「預言者エリヤの聴いた『静かなる細微き声』」とは、旧約聖書列王紀上第十九章のくだりである。

迫害されて「主(神)よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」と困憊するエリアに主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい。」と言う。

すると「見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。
しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリアは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。」(19・11-13)

そして新たな活力と使命を受けて再出発するである。
 この印象的な話はキリスト教でも有名で、文学的にも美しく宗教的にも深い意味をもつ。唯一絶対神と言えば、山や岩を砕く大風、地震、火などに象徴される激しく厳しい神を想像するのだが、ここではそうしたものの中には神がいなかったと言うのである。

目立たない、「ささやく」ような声で語りかけて来る神のイメージは意外である。抱壺が病と戦いながら、磨ぎ澄まされた感覚の中で求めていた神とはそういう神であった。

 「俳句によって神に到ろう」――ここにはエロスを突き抜けて、アガペーへ到ろうとする抱壺の決意が告白されている。キリスト教の日本文化内開花、すなわち日本的キリスト教を模索する井上洋治神父は、その著『まことの自分を生きる』の中で、西行・芭蕉・宮沢賢治などを日本の「すぐれた宗教性を持った偉大な芸術家」として取り上げ、次のように言う。

「ちょうど理性と本能とが、ときに相反しながら、しかも相即して生をかたちづくっていくべきであるように、美をどこまでも追求していく情熱にかられた主我的段階と、大自然のいのちの息吹(風)に己れをまかせていく無我的段階とは、相反しながらしかも相即していくべきであるという相反相即の関係にあるのではないかと思うのである。

これを西洋キリスト教のカテゴリーでいえば、エロスとアガペーの相反相即の関係となるのであろう。そして、すぐれた宗教性を持った芸術家においては、この美の追求のエネルギーが人一倍強いからこそ、またそれを方向づけようとする求道の指向性も強くなり、その相反相即の中の相反の相乗的な烈しさに、魅力的な人間像がうまれてきているように思うのである。」

 抱壺俳句も、「美の追求」と「求道の指向性」という二つのベクトルの相反相即関係から生まれたものと言えるだろう。「・・・・私は又信仰に入つてゆきたい人間でもあった。・・・・その信仰は、求めて徹し得ざる悩みに終始した。」とあるように、彼の作品に見られる静かな俳境と表裏一体の関係で、求道上の葛藤・悩みが繰り返されていたに違いない。

 以下、作品自体からキリスト教に関わると推察できるキーワード(下線部分)を持つ俳句を〝キリスト教俳句〟と仮に定義し、抱壺の信仰の内実を推察してみたい。

  クリスマスも独り、鐘のやうな夜まはりで  s6年30歳

 昭和四―五年頃抱壺は耳を病んでいた。

    一時、聾して
  音なき部屋に花を愛する          s4年
  障子に風のかげ差す耳を病みてをる     s5年


 その病も昭和六年には小康を得たのだろう。回復した耳と∧自然の敏感な反応器と化∨(吉本隆明)した結核患者の生理、そしてなにより抱壺自身の生来の鋭敏な感性、そうしたものが「夜まわり」の音さえ教会の「鐘」のように聞こえさせたのだ。

「クリスマス」に「独り」床にいる孤独感。正直、「なぜ自分ひとりがこんな身に・・・・」という嘆き、淋しさもあったろう。しかしその孤独感の中で、キリストの生誕から十字架上の死去を思い巡らす抱壺にとって、イエスの生涯に倣う微かな満足感が湧いてきてはいなかっただろうか。

仏教寺院の鐘の地を這う響きとは対照的に、天から降るようにして鳴るキリスト教会の「鐘」の明澄な響きは、神からの福音の象徴であるから。

  息安く仰臥してをりクリスマス      石田波郷
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