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十 自由律と信仰  

B:二つ目の問題は、前回触れた個人レベルでの神のとらえ方と関連して、朱鱗洞その他の例で見てきたように、教会を含めて日本のキリスト教が神の父性と母性どちらに重点を置くか、さらに父性といっても短絡的な律法主義に走ることなく、かつ母性といっても日和見的信仰でないものをどう教えるかが大きな問題だね。

 それにしても、朱鱗洞自身は「信仰を失った」と言ってるけど、文字どおり受けとっていいものかどうか。

A:というと?

B:彼は『安息日』の中で、「新たに自分の心に神を見出さねばならぬ。」「強い新らしい信仰の生活に入らねばならない」と言い、その方法は意識のうえでは「ほんとうに、トルストイの教えを受け入れ」ることだと考えている。

信仰を失うきっかけになったトルストイ主義をこの時点(大正五年十一月)でなお捨てようとはしなかった。
しかし一方で彼の内実は、「自然のなかに愛と人生の輝きをみる。そして人生のなかに自然と愛と生命の輝きをみたい」(十六夜吟社)とあるように、俳句をうたうことのなかで失った信仰をとりもどそうとしていたように思えるんだ。
(だがこれで即キリスト教を超えたとみるのは性急。)

A:ここでいう「愛」が「神の愛」につながると・・・・

B:人がどのような形で神に出会うかはさまざまだけど、ひとたび出会ったなら、今度は(いや、それ以前から!)神の方がその人を手放さない。
たとえ本人が意識的に「信を捨てた」としても必ずなんらかの形で神がその人の人生に痕跡を残すんじゃないかと・・・

こういうことは、以前(本稿一参照)君に「お目出度い話」と言われたけれど、「信仰する」というと、ふつうは「自分が神を信じる」ことを意味するけど、本当は自分が信ずる以前に、神の方から自分に近づき、自分を導いてくれていたことに気づく〓信における主客の転換〓ということなんだと思う。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛し・・・・ここに愛があります。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(ヨハネの手紙一1・10・19)

 意識上の厳格で理性的な信仰に朱鱗洞の内実はついていかなかったんじゃないか―彼は自力主体の信にひとたび死ななければならなかった。
 しかし神が彼を離さなかったとしたら、どういうことになるのか。

 朱鱗洞は大正六年の評論『俳壇の新人荻原井泉水氏』(三)の中で、井師の「建設的新俳句観」として、
「吾等が日常の内的生活を省るとき、それはいかに雑駁なものであり不純なものであるかを覚ゆるのである(中略)されば、吾等が句作的努力に依る不断の内省と選練とを重ねて、概念的な踏襲的な思想を漸次に剥脱さしてゆくならば、その剥脱したる丈、純真本然の実在の相が見えて来るのである。」(傍点筆者)

と言い、これに全面同意し、自ら忠実に実践した。
朱鱗洞にとって「概念的踏襲的な思想」とは何か?
それは、以前捨てた教会的信仰であるとともに、今や内心に感激のないトルストイ主義ではないのか。
おそらく彼は句作のなかで自然のやさしい光に触れ、理性的信に呼応する厳格・父性的な神のイメージを、彼の心底と体全体で受け入れられる母なる神のイメージに、知らず転換して(否、むしろ転換させられて)いったんじゃないかな。

それはもはや伝統的に体系化された教義的信仰ではないけれどね。

  麦は正しくのびてゆき列をつくりたり
  牛のまなこにあつめたる力燃ゆるなり
  闇にすつかりひらいたる桜にあゆむ

      (朱鱗洞の晩年大正七年六月の作品より)

A:そういえば、「自然のなかに神をみる」という考えは井泉水にもあったね。こういう考えは日本人にはしっくりくると思う。

B:ただ、つきつめて考えれば、どんなに内容的に(これまでみてきたような)母性的キリスト教であっても、「イエスがキリスト(救い主)である」と明言する限り、他の諸々の思想と区別されなければならない。

その点から言えば宿命的に排他的であり父性原理を免れない。一方、日本人にとっての自然は最終的にはすべてを受容してくれる母性原理として感受される。

だから厳密な意味でキリスト信仰をもって自然をうたうときは、常に父母向性間の緊張と葛藤がある。しかし自由律が本領を発揮するのは、まさにこのへんだと思う。

キリスト信仰にしろプロレタリア思想にしろ、日本人のもつ自然観(母向性)を大切にしながら微温的な花鳥諷詠に還元されず、特定の思想を積極的にうたう(父向性)短詩型文学を指向するとなると、自由律は最も意志的な俳句形式といえるんじゃないかな。

A:う~ん、むずかしいところだね。でも、君が自由律に魅かれたわけがわかってきたよ。

  ほんとうに
  かんげきがさえてくれば
  みじかいことばにもられてくる(八木重吉) 
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