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九 神の父母性と日本人  

A:これまでみてきたことをふりかえると、日本人はどうもキリスト教にはなじめないんじゃないかな?

B:そう簡単に結論は出せないけど、いままでみてきただけでも、そこに大きく二つの問題があると思う。
ひとつは個人レベルでの神の捉え方あるいはイメージの問題。もうひとつは集団レベル、つまり教会のあり方の問題だね。

前者について言えば、内村鑑三のように、たとえば武士道精神に引きつけてキリスト教の厳しい父性的な面を受け入れられる日本人は少ないだろうね。ユダヤ教のイメージ、裁く神のイメージがそのままもちこまれているのが、明治以降の日本のキリスト教だと思う。

A:ぼくなんかも聖書を読むとどうしてもイエスの厳しい面にひっかかってしまう・・・。日本人はとくに倫理・道徳に弱いんだね。

B:だけど、砂漠に育ったユダヤ教の厳しい神のイメージを、ほんとうは神様ってのは「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)方なのだ、というふうにやさしい、母なる神のイメージに転換したのがイエスなんだと思うよ。

A:そういうイエスのやさしい面というのは今まであまり強調されてこなかったように思うけど。

B:ここで注目したいのは、こうした父性的な神観念と文学とは、日本では二律背反の関係になりやすいということ。
ちょっとはしおった言い方になるけど、白鳥のほか志賀直哉や有島武郎など当時、文学を志す青年が一度は内村をとおしてキリスト教にひかれながら、けっきょく離れていったのは、内村の説く厳しい神を受け入れられなかったからだと思う。

この時点で彼らは信仰より文学をとったといえるかもしれない。このことは俳句や詩を作るときにも問題になるだろうね。
日本的キリスト教詩人として有名な八木重吉も内村にひかれながらも、晩年はいわば「イエスの御名をひたすら呼ぶ」といった、浄土真宗的な、母性的神への信仰に徹底していく。だから重吉の場合は結果として詩も信仰もどちらも死に至るまで両立できたんじゃないかな。

A:朱鱗洞の場合もトルストイアンをめざす父性的神信仰からなんらかのかたちで母性的神信仰へ転換できれば、教会を離れてもキリスト信仰をあるいは維持できたかも。

B:人間の罪を厳しく糾弾する神に正面から対決するだけの自我の強さが、日本人にはないのかもしれない。
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