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八 座  

B:たとえば、君が例に出した姦淫に対する戒めは、ヨハネ伝八章の「姦通の女」の話のところで語られたと解釈すると、ぴったりするんじゃないかな。(ヨハネ7・53~8・11参照)。

もともと聖書の書かれた文化や歴史的な背景は、今の時代とはまったく違うんだから、それを前提としないで、聖書の言葉を個別に普遍化するのは問題だよ。

A:でもそうすると、聖書は書かれた時代と場所に生きていた人にしか理解できないってことにならないかい?

B:そこだよ、問題は。最初に書かれたときに、どういう背景があったのかをまず知る。そのためにはやはり、学問の力が必要さ。聖書学や考古学の存在理由もそこにある。

ただ、ひととおりそういうことがわかってからは、時代をこえてわれわれに語りかけるメッセージを聴くということが大切なんだ。

A:聖書を現代的に解釈する作業が必要なんだね。

B:そう。さらに注意しなきゃいけないのは、聖書を現代的に解釈する場合、同じ現代人といっても、たとえば西欧人と日本人では背負っているメンタリティが違う。

日本人が生きてきた歴史や風土を無視して、西欧的にアレンジされたキリスト教をそのまま日本へ持ち込んだって、そっぽを向かれるだけだよ。そういう意味じゃ、西欧のキリスト教だって、絶対なものじゃない。

A:その考え方、俳句の解釈論にもつながるね。

B:うん。俳句の場合も、前(「朱鱗洞の淋しさ」)に触れたように、ある作品を理解するために は、作者の生きた時代背景やおいたち、思想などを知っておくことは大切だと思う。

でもその後はひとたび作者から離れて、作品そのものに、俳句の言い切らなかったいわば余白の部分に読者である自分を投入していく。

そういう作業を丹念に繰り返していくとき、作者と読者である自分とが、ひとつの作品を通じて、時代や場所を越えて交流できるんじゃないかな。

A:俳句における作者と読者のダイナミックな交わり!

B:現代は、価値の多様化とか心の時代なんていわれるけど、一方通行の情報過多のなかで、ぼくらの生き方は知らずしらずのうちにステレオタイプ化し、自分も他者も見えなくなっている。

そういう失われた自分と他者を再発見し、心の交流を取り戻す場という意味で、俳句を現代的な「座」の文学として捉えなおすことができると思うよ。
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