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七 コンテクスト  

A:朱鱗洞は、崇高な理想を抱いて教会を出たけど、けっきょく信仰を失うはめになったのか・・・・。

B:トルストイ主義は、理性的にわかりやすいし、人生問題を真面目に考えようとする青年期にはとくに魅かれるものがあると思う。

戦前は白樺派の人たちを中心に、トルストイはずいぶん読まれていた。

しかし武者小路実篤など、トルストイにかなり影響されながらも、結局は独自の思想を見いださざるをえなかったんだと思う。

A:いくら朱鱗洞でも、「山上の垂訓」をそのまま実行するなんてできることじゃないよ。

だけど実際イエスは、ずいぶん厳しいことも言ってるだろ?
「情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。」(マタイ5・28~29)とか。

こういう言葉を聞くと、正宗白鳥じゃなくても、男ならだれでもつまずくよ。

B:こういう言い方はユダヤ特有の誇張法だと解釈する人や、内村鑑三のように、イエスの弟子など特に修業をつんだ人たちに対して言われたんだとか、昔からいろんな解釈があった。

トルストイは、これは万人がそのまま実行すべき徳目だと主張している。

ぼくも長い間こういう厳しい要求がどうしてイエスからでてきたのか疑問だった。

ただ忘れちゃいけないことは、いわゆるトルストイ主義は、トルストイ自身の人生遍歴、彼が生きたロシアの教会や政治状況、その中で苦しむ貧しい民衆の姿を見ていくうちに、やむにやまれずでてきたものだということ。

だから彼自身には真実な道であっても、その背景を無視して、信仰形態だけを日本人がまねたところで、うまくいくとは思えないな。

宗教が理性的徳目主義として普遍化されてしまったら、信仰は死んじゃうよ。

A:イエスの嫌った律法主義と変わらなくなっちゃう?

B:紙一重ってところだろうね。
トルストイの信仰だけでなく、「山上の垂訓」にしても、つぎつぎにでてくるイエスの要求が、どういうコンテクスト(文脈)のなかで語られたのかってことを考えることが大切だと思う。

もともと「山上の説教」は、イエスがある時一度に語ったことではなく、いろいろな場合に言ったことの寄せ集めだからね。

A:あるイエスの言葉だけを取りだして、あれこれかってに読み込んで解釈するのは危険だってことか。

B:このことは、聖書解釈全般に言えることだと思うよ。
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