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六 朱鱗洞の淋しさ  

A:トルストイアンをめざして教会を離れた朱鱗洞の信仰は、その後どうなったんだろう?

B:『安息日』によると、彼は教会を離れるとともに「何時の間にか祈る事も忘れて」しまい、「信仰がないから淋しい」と告白している。
だから「といって教会的信仰へは復りたくない。新たに自分の心に神を見出さねばならぬ」といった、ジレンマと焦りを感じている。

A:そのへんのところ、彼の俳句からわかるかい?

B:直接うたった朱鱗洞の句は見当らないけど、『安息日』を発表した大正五年の作品、たとえば

  わが淋しき日にそだちゆく秋芽かな  (一月)
  冬日さぶしくわが制服の埃が浮けり  (二月)
  夜の雨の太さ淋しう居りぬ      (九月)
  ふうりんにさびしいかぜがながれゆく (十月)


などの句に出てくる「淋し」さには、キリスト信仰を失ったがゆえの、そういう意味では日本人として特殊な淋しさが、含まれているとぼくは思う。

たとえ句作の時にはそれと意識しなくても、信仰の有無は作者の生活感にとって支配的なものだろうし。

A:朱鱗洞の句をそういうふうに読んだことはなかったなあ。
でも、『安息日』と重ね合わせれば、そういう読み方もできるか。
君はキリスト教徒だしね・・・・。

B:なんか、不満そうだね。

A:いや、これは俳句の捉え方の問題だけど、たとえば山頭火や放哉にしても、俳句そのものと俳句以外の資料、そして読者との関係ということ。

B:たしかに、さまざまな資料によって、作者の本意をどこまでも知ろうとする謙虚さは必要だと思う。

だけどどんなに周辺知識をつけても、最終的には、読者がもっている日常の問題意識や人生観の方が、句の解釈に大きく影響すると思うんだ。

短歌が言い切る文学だとすれば、俳句はその成立過程からも、いわば解釈の半分以上は読者任せの文学として成立している。

その意味では、読み手に引き付けて自由に解されることを最もゆるしている文学と言ってもいい。

朱鱗洞もぼくにとっては、自分の問題意識を離れては考えられないな。

だから、もし対読者への作句態度を問題にするなら、読者の潜在的なイメージをどれだけ引き出す力があるかで句の良し悪しが問われるんじゃないかな。
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