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神の問題が  

なければ、おそらく私が俳句にかかわることはなかったであろう。私にとって求道と句作は同時展開し、切り離して考えることはできないものであった。

二十六才でカトリックに受洗した前後、山頭火と交友のあった自由律俳人、海藤抱壺の句集『三羽の鶴』の次のような句に出会った。
       
  クリストの齢(よわい)なるこそ女に触れぬ我身こそ
  御旨のままに、今日は花びらがちる
  神様の楽書として自分を全うしよう


 そのあとがきには次のようにある、
「十七八の頃より聖書に親しんできたその信仰は、求めて撤し得ざる悩みに終始した――俳句に拠って神に到らう――私は独りさう思ふやうになった。

句作に研ぎ澄した詩。魂の極みに、かのエリヤの聴いた『静かなる細微ホソき声』は響いて来ないであらうか・・・・。とまれ、私はこの儘の姿で、句を作る心境に於て救はれるのでなければ救はれないに違ひない。」

 受洗してからも様々に迷い続ける私は、抱壺のこの一途さと素直さに心を打たれる――そして彼は私にこう言っているように思う、「おまえは何を詠んでもかまわない、どう詠んでもかまわない。

ただし、おまえの神への渇きを誤魔化すな!」と。

 神は細部に宿る風に紛れぬ不整脈  栄一
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