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神の写生  

  神様を恨んで帰る泡立草       鹿又 英一
  初冬のなんじ官員するなかれ     宮崎 二健
  秋人も黒煙となるアベ・マリア    神山 姫余
  発狂の五センチ手前神を見る     山本 敏倖


日頃は神を意識しなくても生きていられる。しかし死や病などいわゆる限界状況に立たされるとき、おそらく一度ならず人は神を問題にせざるをえないだろう。

その過程で、神に直面していると感じることもありうる。俳人であれば、語り切れない神をなんとか詠もうとするかもしれない。

 そのとき今度は、神を詠む姿勢が問題になる。神は対象化できないから客観写生によって、草木雪月花と並列に詠めるものではありえない。(なによりそれでは人は安んじて死んでいくことはできない。)

これを神は主観 においてしか対峙できない、と言い換えるなら、今度は有神論的実存主義のパラダイムでの話と、ことわりをつけなければならないかもしれない。しかしこのことは、たとえば聖書の理性的理解の限界を一、ニ例あげるだけで十分了解されることではないだろうか。
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