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回心の伏線  

たしかに、ダマスコの体験自体は劇的で、ある時突然起こったもののように記されています。しかしこれは、何の前触れもなく、何の関わりをも持たない(復活者)イエスが突然、パウロの人生に介入してきた、ということなのでしょうか。

そうは思えないのです。 パウロは回心前からイエスのことを知っていました。そればかりでなく、正統なユダヤ教徒として、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」のです。

キリスト教会最初の殉教者であるステファノの死にも立ち合っていたようです。(使徒言行録7.58) 要するに、回心前のパウロは、反対の立場にありながら、キリスト者がどういう生き方をするものなのかを少しずつ知っていったと推測されるのです。

実際に、ステファノの殉教に代表されるように、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、自分を迫害する人々をゆるし、祈って死んでいくキリスト者の姿を見ていたにちがいありません。

そしてその姿は、イエスの十字架の死の姿と二重写しになります。

「そのとき、イエスは言われた。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23.34)

 こうしたことが、パウロ回心の伏線として敷かれていったのではないでしょうか。その過程で、律法遵守に最大の価値を置いていたファリサイ的な生き方から、愛とゆるしこそが生き方の源泉なのだと少しずつ悟っていったのだと思うのです。

ダマスコでの回心は、その延長上に、頂点として起こった出来事だったと言えます。けっして、何の前触れもない突然の回心ではなかったのです。
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