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「余白の風」第124号-4ページ  

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眠りてもたよる手が手の中にある   日向野秀策

私の隣県栃木小山・間々田で長い間教師をしていた人です。M41~S60.

私見では、その堅実な詠いぶり、自由律俳句実作の第1級のお手本だと思います。

掲句、一読お子さんを詠った句とわかりますが、頼られる「手」が、アッバ・神の御手ととったら、すばらしいじゃないですか!

無意識の眠りのうちにも、アッバがしっかり握ってくれて、わたしたちの手を離すことはありません。(05/22)

■一段落・一行詩 

雨脚に日のさしくれば水がめにある豆腐   (同 昭和10年前)

「俳句は一つの段落をもっている一行の詩である」と、井泉水は定義した。

この句は、「~れば」ではっきり句切れる典型的な句。

「雨」「水がめ」「豆腐」みな水の縁語ともとれるが、これだけ畳み掛けてもしつこくならない、情景の切り取り方の巧さが冴える。(05/23)

■自由律俳句の秘法?まず、2つ。 

裏口へ陽がきているやっぱりふるさと  秀策


「やっぱり」は口語で、山頭火風。

①上句で目前の情景を写生、下句へ感慨をこめる手法。

一応「きている/やっぱり」と切れるが、「きている」が「やっぱり」を飛び越えて、「ふるさとに」かかる②一句一章的二句一章の作り方です。(05/25)

■普遍的な寂しさ 

ここまで書いてきて、「層雲」6月号が届きました。

その中から、私が選んだ秀句を紹介します。巻頭に古い句が載っています。

俺を敵する人もない恋する人もない  木村末吉

さびしい句ですね。昭和2年、21歳で亡くなった青年です。
そう、昭和2年というのは、うちのお袋が生まれた年、いや、それより、井上神父の生年ですね。
人間の寂しさとは時代をこえている、ということを改めて思います。(05/31)

■「層雲」自由律俳句 6月号から 

ようやく加減心得て赤い糸結び直す   南家歌也子


うまいですね。「赤い糸」も「結び」「加減」があるとは。。。

笑った覚えのない笑った写真  高田弄山

ぼくは、これ、ぞくッとしました。ナチスのユダヤ人収容所での写真を見たときの衝撃を思い出したから。

収容所では無理に笑っていなければ、殺されてしまったのです。。。アッバ アッバ 南無アッバ (06/01)

■文学が宗教に 
 
挽いていると大きい氷の二つになると涼し   大越吾亦紅

昭和24年の作。
これも今は、見ない光景になりました。氷屋さん、30年代にはうちにも来ましたし、家族が熱を出せば、風呂敷をもって買いに行った。。。

大きなのこぎりで、氷を切ったとき、ふわっと湯気が立って、あたりが涼しくなる。

情景をそのまま詠ってはいるのですが、それが一句にまとまると、どこかにほっとした「救い」--日常に織り込まれている救いを感じるのです。

「日本人には文学が宗教の代替になってきた、、、」という言葉を思います。(06/06)

■ひらがなのやわらかさを使う 

あさつゆのなすびは食べるだけちぎらせてくれる   大橋裸木

こういう光景は今は、まず見られませんが、昭和5年の作。
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