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「余白の風」第124号-3ページ  

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○10句目「殊更」--「て」と「た」の問題。
これも実作上、つねに迷う所です。

A.「て」とすると、明確に一カ所で区切れる二句一章になりますが、上句は下句を引き出す働きがあるので、やや重心は下句に置かれます。

B一方、「た」とすると、二つの読みを許します。
①「過ぎた/春が」と句切れば、この「た」は過去(の確認・詠嘆を含む)の助動詞となり、「・・・・冬が過ぎたなあ」「春が早そうだなあ」という完全に上下対等の二句一章。さながら、やじろべいのようです。

②「春が/早そう」と句切れば、「た」は完了・存続の助動詞となり、「・・・・(そうゆう)春が」と一句前半はすべて主語「春」を修飾する、一句一章的な読みとなります。

これらのことは、一句中の「春」に置かれる重心の在り方として、まとめることができます。すなわち、B①→A→B②の順で、だんだんに「春」が重くなっていくということです。

 さて、ではどうするか、ということなのですが、A「て」の危険性は、意味上「~て」で「~なので」というニュアンスが出てしまい、理屈っぽくなる嫌いがあります。

おそらく先生の添削はそのための訂正かと思われます。

ではB「た」として、読者の読みを①②どちらにも任すということでもよいわけですが、もし、②の読みを作者が期待するのであれば、このままでは一章としてやや不自然な感は免れないように思います。

前半「冬が」の「が」が問題になるからです。
一文のなかに、「○が~する□が」という、自由律俳句ではよく見かける言い回しです。

これは明らかに、俳句を知らない一般の人には、不自然に聞こえるでしょう。

そこで、「冬が」を「冬を」にしたらどうでしょう。自然体になります。いわば潔く前半が「春」を修飾します。

そして最後にもう一度読み直す。。。。すると、ここで俳句は散文の一行ではない詩であることを思い知らされます。

すなわち、散文として自然体であっても、要は、俳句・詩として、面白いか、という単純な一事に思い至るのです。
このあたりのこと、散文としてはやや不自然だが、詩の言い回しとしては面白い、ということが、一般の人にわかってもらえることが、大事なのではないか、と思います。

気がかりそれはそれとして初金の朝ミサ

○20句目「気がかり」――「な」を入れるかどうかの問題。

これも上の不自然な言い回しの問題と一脈します。

一般の人は、おそらく「気がかりなそれ」という言い方には慣れていません。

旧層雲時代には、いわゆる「層雲調を脱して、新しいリズムを・・・・」ということが言われていましたが、あちこち見てきますと、むしろ「層雲調」は現代において新鮮な修辞ではないかという感を強くしています。

私などが、回帰した理由の一つもここにあります。僭越ながら問題は、長い伝統が作り出したこうした遺産を、どう一般に伝え、維持・発展させるか、だと思います。

とりあえず、この句、「な」を入れるとすれば、「気がかりな、それは」とカンマを入れてみようかと思います。
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PS:先日、いままでの句を整理してみました。結社・同人誌所属は次の通りです。

旧「層雲」1986.8~92.8(6年)
「層雲自由律」92.9~01.8(9年)
「豈」98.7~(8年)
「海程」02.1~02.9(9ヶ月)
「紫」02.10~05.12(3年)
新「層雲」復帰06.4~

こうしてみますと、旧層雲の方たちとは、あの不幸な分裂があった92.8以来ですから、14年ぶりということになりましょうか。

しかし私自身としては、自由律からおよそ離れていたのは、01.8以来ですから、5年弱です。

ずいぶん寄り道したなあ、とも思いますが、今はこの間、あちこち見てきて、勉強にもなったなあ、という気持ちでいます。(05/20)

■自由律は、山頭火、放哉だけじゃない! 

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