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「余白の風」 第124号 2006年7月号-2ページ  

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こうして、切字やカンマによる句意の二重性は、それこそ「使うべきところに」使えば、俳句の醍醐味を増すであろう。

しかし、昨今のいわゆる「現代俳句」では、切字・カンマがあってもなくても、上(中)下句間の係り具合が、一般読者にはとても連想できないほど飛躍しすぎている嫌いがある。「難解」と言われるゆえんである。

一度離れた自由律俳句に私が回帰したのも、そうした独断的飛躍に疲れたからかもしれない。

とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン   加藤郁乎

しかし、自由律といえども、ここまで言葉遊びが過ぎると、言葉の係り具合、気持ちの二重性どころの話ではない。これも疲れる。

してみると私にとって、改めて自由律俳句の魅力とは、定型にはない、その散文性=「わかりやすさ」にあるのかもしれない。(05/15)

自由律俳句添削指導の実際 
W先生
拙句、ご丁寧な添削をいただき誠にありがとうございます。

さて、本来添削指導というのは、生徒が先生に対してしていただくもので、私なども、仕事柄よく関わっているところです。

ですから、添削されたものに対して、さらにまた何か生徒が述べる、意見を言う、というのも、場合によっては、先生に失礼に当たると思い、遠慮するのが一般的かと、思います。

事実、私が添削した作文等に、文句を言ってくる生徒は、まず、いません(笑)。

 しかし、ここはひとつ、あえて私自身の精進・求道のためと思いいただき、「先生」に「生徒」が、添削後所感なるものを、ひとこと添えることを、お許しいただければと思います。

 そしてもしかしたら、実作を巡るこうしたやりとりから、自由律俳句に興味を持って、自分もやってみよう!と思う方もいるかもしれない、そういう期待もあります。

さらに大げさに言わせていただければ、定型に対する自由律の問題点やすばらしさ、楽しさが、新たに見えてくるかもしれない、とも思っています。
何卒、ご容赦のほど。今後とも、よろしくご指導お願いいたします。層雲社友・平田栄一
----------------
まず原稿末尾に、拙句「レベル以上の句」との過分なお言葉、恐縮です。

無口といって不機嫌なわけでもない青春

○2句目「無口」--末尾の「青春」の扱いの問題。

ここは自分でも、どう〆るか、迷いがありました。
たしかに「青春」は、やや曖昧かな、とも思いましたが、上「無口」「不機嫌」が具体的なので、曖昧な措辞で〆てもいいのではないかと判断したのです。

先生の指摘「より具体的に」とのアドバイスですが、「青葉」「葉ざくら」などですと、自然が入って雰囲気はよくなりますが、ちょっとわかりにくくなってしまう気がします。

で、たとえば「息子の青春」とでもしてみようかと思います。これは、作るときも考えにはあったのですが、「息子」と「青春」では言わずもがな、しつこいかと思ったのでした。

すっかり日が伸びて鍵穴に鍵するりと入る夕暮れ

○7句目「すっかり」--これも末尾「夕暮れ」の問題ですね。

たしかに不用かもしれません、「すっかり日が伸びて」で「夕暮れ」は承知されるわけですから。。。再考します。

黄梅白梅春の庭いずれ良いこともあるさ

○9句目「黄梅」--「春の庭」不用、との添削ですが、正直迷うところです。

原句ですと、「春の庭」によって、4・4・⑤/3・5・3というリズムで、短歌的に上/下がはっきり分かれた2句1章になりますね。

「春の庭」をとれば、より俳句的リズムになるかもしれません。何度も読み返していると、その方がよいようにも思えてきます。

このあたたり、自由律が難しい、といわれる所以の一つのように思います。

殊更寒い冬が過ぎて春が早そう

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