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「余白の風」第124号 2006年7月号-1ページ  

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Copyright © 2005 余白こと平田栄一, All rights reserved.
本誌(1990年創刊)サイトは俳句を中心として、
日本人の心情でとらえたキリスト信仰を模索するための機関誌です。
毎月発行しています。
どなたでもご自由に投稿・感想をお寄せください。(採否主宰一任)

投稿先:掲示板 ホームページ「今を生きることば
<目次>
主宰作品・・・・1
「層雲」自由律俳句日記・・・・1
ルカ伝黙想・・・・5
求道詩歌会員作品-292・・・・5
日本人の感性でとらえるキリスト教対話編(最終回)・・・・12



主宰作品 層雲7月号より 平田栄一

風に楓踊らせコキコキ硝子戸を拭く

復活祭の子らに春陽照ったり曇ったり

西日によく咲くスミレよ名誉は要らない

酒やめた父が聞き上手になっている古里

不登校の子が親と来て揃えて脱ぐ靴


「層雲」自由律俳句日記
木の葉散る歩きつめる   山頭火

「鉢の子」より。
「木の葉散る」リズムで、「歩きつめる」山頭火。
この「リズム」を想像するとき、カトリック信者が思うのは、まずロザリオの祈り。

主の祈りとアヴェマリアを繰り返す。
単調ななかにも心地良い一定のリズム。
そして今は、「南無アッバ」の祈り。

「アッバ、アッバ、南無アッバ」と繰り返す。。。
「木の葉」が御心のままに、使命を果たし、静かに散っていく。

裏を見せ、表を見せて、無心に散っていく。
そのリズムに合わせて歩きたい。(05/11)

■コンマ使用を奨励するわけではないけれども、コンマを生かして使うべきところには重宝なものである。

「講演の題」より。
アインシュタインや川端康成の講演の題に触れ、俳句におけるカンマ使用の是非を論じている。

川端康成のノーベル賞記念講演の題は、はじめ「日本の美と私」だったのが、「美しい日本の私」と改められた。

前者だと、「日本の美」と「私」に距離ができてしまうが、後者に改めると、「美しい」が「日本」と「私」両方にかかり、言葉の「アヤ」を生んでしまう、と井師はいう。

この場合の「アヤ」は、作者が意図しないで、自然に生まれてしまう「あいまいさ」という意味と思われる。

ここで井師は、「定型俳句では切字の約束のために内容が単純化されているから、気分の入り組みの取りあげようはないけれども・・・・」と言っているが、どうだろうか?

「切字」はむしろ、この「あいまいさ」を確信犯的に捻出しようとする「アヤ」のように、私には思われる。

それは好意的に見れば、句意の広がりということでもあるが。

いずれにしろ、上の題をたとえば、「美しい日本、の私」とすれば、カンマが、「ありて」や「中の」という措辞と同じ働きが得られることになる。
その後、井師は、

ふろしきの四角いこれがべんとう、を持つ   吾亦紅

娘と平凡な勤め人のハズ(夫)、と私が今日は梅を見る   井泉水

などの例を引いて、「気持が二段」「気持が二重うつし」になる効果を説いているから、「コンマの・・・・重宝」なところは、切字の効用と同じようなものと考えていたのではないだろうか。

ただ、「美しい日本、の私」の場合は、「美しい」が「私」に、より直接的にかかる言葉の「アヤ」を免れるが、同時に、上二句と同じように「気持が二段」になる別の「アヤ」を生んでいるように思う。
(2ページへ続く)
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