「南無アッバ」を生きる ホーム » 平田栄一求道詩歌(3) »「ふつうの俳句」とのちがい

「ふつうの俳句」とのちがい  

自由律俳句が「ふつう」じゃない、と言ったら、長年作っている方に怒られてしまうかもしれませんが、あえてこういういい方をしてみました。

というのは、一般には「俳句」といえば、まず五七五という定型が基本で、季語が入っている(これを「有季定型」といいます)短い詩、というのが当たり前と思っている方が多いからです。

しかし、先日も、最近の「高校国語」の教科書を、同僚の先生に見せてもらったのですが、あります、あります、種田山頭火や尾崎放哉といった定番の自由律俳人の句が載っていました。もちろん、ちゃんと「俳句」の学習項目のなかにです。

それがどうして、俳句といえば「有季定型」とハンで押したように思うようになったのか、それはたぶん、学校での「国語」教育の仕方かもしれません。

つまり、「俳句」について学ぶとき先生は、まず「俳句というのは有季定型」の詩である。

しかし例外として、有季ではない「無季」、定型ではない「自由律」の句も、稀にはある、とふうにして、山頭火や放哉の句を教えるだろうからです。
関連記事


category: 平田栄一求道詩歌(3)

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/349-6e916b6b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop