「南無アッバ」を生きる ホーム » 平田栄一求道詩歌(3) »自由律俳句添削指導の実際

自由律俳句添削指導の実際  

和久田登生 先生

拙句、ご丁寧な添削をいただき誠にありがとうございます。

さて、本来添削指導というのは、生徒が先生に対してしていただくもので、私なども、仕事柄よく関わっているところです。

ですから、添削されたものに対して、さらにまた何か生徒が述べる、意見を言う、というのも、場合によっては、先生に失礼に当たると思い、遠慮するのが一般的かと、思います。

事実、私が添削した作文等に、文句を言ってくる生徒は、まず、いません(笑)。

 しかし、ここはひとつ、あえて私自身の精進・求道のためと思いいただき、「先生」に「生徒」が、添削後所感なるものを、ひとこと添えることを、お許しいただければと思います。

 そしてもしかしたら、実作を巡るこうしたやりとりから、自由律俳句に興味を持って、自分もやってみよう!と思う方もいるかもしれない、そういう期待もあります。

さらに大げさに言わせていただければ、定型に対する自由律の問題点やすばらしさ、楽しさが、新たに見えてくるかもしれない、とも思っています。

何卒、ご容赦のほど。今後とも、よろしくご指導お願いいたします。
層雲社友・平田栄一
----------------
20060519224339.jpg←添削原稿クリック拡大します。

まず原稿末尾に、拙句「レベル以上の句」との過分なお言葉、恐縮です。

○2句目「無口」--末尾の「青春」の扱いの問題。
ここは自分でも、どう〆るか、迷いがありました。

たしかに「青春」は、やや曖昧かな、とも思いましたが、上「無口」「不機嫌」が具体的なので、曖昧な措辞で〆てもいいのではないかと判断したのです。

先生の指摘「より具体的に」とのアドバイスですが、「青葉」「葉ざくら」などですと、自然が入って雰囲気はよくなりますが、ちょっとわかりにくくなってしまう気がします。

で、たとえば「息子の青春」とでもしてみようかと思います。これは、作るときも考えにはあったのですが、「息子」と「青春」では言わずもがな、しつこいかと思ったのでした。

○7句目「すっかり」--これも末尾「夕暮れ」の問題ですね。
たしかに不用かもしれません、「すっかり日が伸びて」で「夕暮れ」は承知されるわけですから。。。再考します。

○9句目「黄梅」--「春の庭」不用、との添削ですが、正直迷うところです。
原句ですと、「春の庭」によって、4・4・⑤/3・5・3というリズムで、短歌的に上/下がはっきり分かれた2句1章になりますね。

「春の庭」をとれば、より俳句的リズムになるかもしれません。何度も読み返していると、その方がよいようにも思えてきます。

このあたたり、自由律が難しい、といわれる所以の一つのように思います。

○10句目「殊更」--「て」と「た」の問題。
これも実作上、つねに迷う所です。

A.「て」とすると、明確に一カ所で区切れる二句一章になりますが、上句は下句を引き出す働きがあるので、やや重心は下句に置かれます。

B一方、「た」とすると、二つの読みを許します。

①「過ぎた/春が」と句切れば、この「た」は過去(の確認・詠嘆を含む)の助動詞となり、「・・・・冬が過ぎたなあ」「春が早そうだなあ」という完全に上下対等の二句一章。さながら、やじろべいのようです。

②「春が/早そう」と句切れば、「た」は完了・存続の助動詞となり、「・・・・(そうゆう)春が」と一句前半はすべて主語「春」を修飾する、一句一章的な読みとなります。

これらのことは、一句中の「春」に置かれる重心の在り方として、まとめることができます。すなわち、B①→A→B②の順で、だんだんに「春」が重くなっていくということです。

 さて、ではどうするか、ということなのですが、A「て」の危険性は、意味上「~て」で「~なので」というニュアンスが出てしまい、理屈っぽくなる嫌いがあります。

おそらく先生の添削はそのための訂正かと思われます。

ではB「た」として、読者の読みを①②どちらにも任すということでもよいわけですが、もし、②の読みを作者が期待するのであれば、このままでは一章としてやや不自然な感は免れないように思います。

前半「冬が」の「が」が問題になるからです。

一文のなかに、「○が~する□が」という、自由律俳句ではよく見かける言い回しです。

これは明らかに、俳句を知らない一般の人には、不自然に聞こえるでしょう。

そこで、「冬が」を「冬を」にしたらどうでしょう。自然体になります。いわば潔く前半が「春」を修飾します。

そして最後にもう一度読み直す。。。。すると、ここで俳句は散文の一行ではない詩であることを思い知らされます。

すなわち、散文として自然体であっても、要は、俳句・詩として、面白いか、という単純な一事に思い至るのです。

このあたりのこと、散文としてはやや不自然だが、詩の言い回しとしては面白い、ということが、一般の人にわかってもらえることが、大事なのではないか、と思います。

○20句目「気がかり」――「な」を入れるかどうかの問題。
これも上の不自然な言い回しの問題と一脈します。

一般の人は、おそらく「気がかりなそれ」という言い方には慣れていません。

旧層雲時代には、いわゆる「層雲調を脱して、新しいリズムを・・・・」ということが言われていましたが、あちこち見てきますと、むしろ「層雲調」は現代において新鮮な修辞ではないかという感を強くしています。

私などが、回帰した理由の一つもここにあります。僭越ながら問題は、長い伝統が作り出したこうした遺産を、どう一般に伝え、維持・発展させるか、だと思います。

とりあえず、この句、「な」を入れるとすれば、「気がかりな、それは」とカンマを入れてみようかと思います。
--------------
PS:先日、いままでの句を整理してみました。結社・同人誌所属は次の通りです。

旧「層雲」1986.8~92.8(6年)
「層雲自由律」92.9~01.8(9年)
「豈」98.7~(8年)
「海程」02.1~02.9(9ヶ月)
「紫」02.10~05.12(3年)
新「層雲」復帰06.4~

こうしてみますと、旧層雲の方たちとは、あの不幸な分裂があった92.8以来ですから、14年ぶりということになりましょうか。

しかし私自身としては、自由律からおよそ離れていたのは、01.8以来ですから、5年弱です。

ずいぶん寄り道したなあ、とも思いますが、今はこの間、あちこち見てきて、勉強にもなったなあ、という気持ちでいます。
関連記事


category: 平田栄一求道詩歌(3)

tb: 0   cm: 2

コメント

生きるとは・・・?


はじめまして。

人(私)はどこから来て
何のために生きて
どこへ向かっているのだろう・・・?。
この世界の終末はどうなるのか?

私は、若い頃から人生についていろいろ考え、
人間はどこから来て、何のために生きて
どこに向かって生きているのかを問い続けて来ました。

神の存在、人生の意味は何か、いのちと死の問題」など
について、初心者にも分かりやすくブログでキリストの福
音を書き綴っています。

どうか、時間のあるとき、ご訪問ください。

http://blog.goo.ne.jp/goo1639/

Mr.sheep #mQop/nM. | URL
2006/05/21 20:47 | edit

ありがとうございます

Mr.sheepさん、お誘いありがとうございます。HPちょっとのぞかせていただきました。真摯な内容ですね。頑張ってください。

余白 #oBO5MkqQ | URL
2006/05/22 05:55 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/309-1d7db206
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop