「南無アッバ」を生きる ホーム » 平田栄一求道詩歌(3) »コンマ使用を奨励するわけではないけれども、コンマを生かして使うべきところには重宝なものである。

コンマ使用を奨励するわけではないけれども、コンマを生かして使うべきところには重宝なものである。  

「講演の題」より。
アインシュタインや川端康成の講演の題に触れ、俳句におけるカンマ使用の是非を論じている。

川端康成のノーベル賞記念講演の題は、はじめ「日本の美と私」だったのが、「美しい日本の私」と改められた。

前者だと、「日本の美」と「私」に距離ができてしまうが、後者に改めると、「美しい」が「日本」と「私」両方にかかり、言葉の「アヤ」を生んでしまう、と井師はいう。

この場合の「アヤ」は、作者が意図しないで、自然に生まれてしまう「あいまいさ」という意味と思われる。

ここで井師は、「定型俳句では切字の約束のために内容が単純化されているから、気分の入り組みの取りあげようはないけれども・・・・」と言っているが、どうだろうか?

「切字」はむしろ、この「あいまいさ」を確信犯的に捻出しようとする「アヤ」のように、私には思われる。

それは好意的に見れば、句意の広がりということでもあるが。

いずれにしろ、上の題をたとえば、「美しい日本、の私」とすれば、カンマが、「ありて」や「中の」という措辞と同じ働きが得られることになる。

その後、井師は、

「ふろしきの四角いこれがべんとう、を持つ   吾亦紅」
「娘と平凡な勤め人のハズ(夫)、と私が今日は梅を見る   井泉水」

などの例を引いて、「気持が二段」「気持が二重うつし」になる効果を説いているから、「コンマの・・・・重宝」なところは、切字の効用と同じようなものと考えていたのではないだろうか。

ただ、「美しい日本、の私」の場合は、「美しい」が「私」に、より直接的にかかる言葉の「アヤ」を免れるが、同時に、上二句と同じように「気持が二段」になる別の「アヤ」を生んでいるように思う。

こうして、切字やカンマによる句意の二重性は、それこそ「使うべきところに」使えば、俳句の醍醐味を増すであろう。

しかし、昨今のいわゆる「現代俳句」では、切字・カンマがあってもなくても、上(中)下句間の係り具合が、一般読者にはとても連想できないほど飛躍しすぎている嫌いがある。「難解」と言われるゆえんである。

一度離れた自由律俳句に私が回帰したのも、そうした独断的飛躍に疲れたからかもしれない。

「とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン   加藤郁乎」

しかし、自由律といえども、ここまで言葉遊びが過ぎると、言葉の係り具合、気持ちの二重性どころの話ではない。これも疲れる。

してみると私にとって、改めて自由律俳句の魅力とは、定型にはない、その散文性=「わかりやすさ」にあるのかもしれない。
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