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要約・平田講座22--100回記念特集  

<テキスト『心の琴線に触れるイエス』(聖母文庫)>

十字架のいろいろな意味を一覧し、井上神父の十字架=共苦の頂点を確認しました。

その上で、「信じる」とは何かをめぐり、カール・ラーナーをとっかかりにします。

p.34.5-E
<カール・ラーナーという現代のカトリック教会を代表する神学者は、次のように述べています。

「救いの意義の原初的な経験とは、ただ単純素朴に、『われわれは救われた、なぜなら、われわれと同じこの人間が神によって救われ、このことによって神が御自分の救いの意志を、歴史の上で現実的に、撤回不可能な形で世界的に実在させたからである』という経験であった。

これに対して、外から持ち込まれた解釈は、一つの可能性ではあるが、だからと言って絶対に不可欠なものではない。」

(百瀬文晃訳『キリスト教とは何か』三七六頁)>


彼の大きな働きは、他宗教との対話へ道を開いたことで、包括主義という立場が象徴的です。


キーワードとして「無名のキリスト者」という言葉があります。

これは、ラーナーの用語で、キリスト信仰を告白していなくても、客観的にキリストの救いに参与している人がいるということです。

井上神父もこの用語について「風」八一号で、「無記名のキリスト者」として「洗礼」の必要性に関して、一文を書いています。


それを要約すると――

1.洗礼はイエスの生前でなく、復活後にはじまった。


2.イエス以前の旧約時代の人はどうなるか?

→「自覚的信仰eplicit」に対して、「含蓄的信仰implicit」--神を信じ、神のことはなんでも受け入れる--によって救われる。

例えば、「望みの洗礼」=自覚がなくても聖霊の働きに誠実に開かれた心を持てば救われる。


3.救いの基本は「自我の明け渡し」にかかっている。

4.「記名のキリスト者」と「無記名のキリスト者」の違いは救いの可否ではなく、同じ「キリストの体」を構成するなかの「役割」の問題である。

--以上です。


百瀬文晃神父は、井上神学に通じる、「下からの神学」を重視する神学者です。

例えば、イエスはなぜ十字架にかかったのかを説明する場合、「上からの神学」では、「罪人の罪を贖うため」、というふうに、即目的論(for)や神学的意味に持っていきますが、「下からの神学」では、「悲愛を貫いたから」(井上)というように、まず一般の人が理解できるように理由(by)や歴史的原因を説いていきます。


ラーナーの『キリスト教とは何か』を訳した百瀬神父の「解説」には、「未来の神学、また日本の神学のためにこそ、ラーナーの神学から多くのことを学び得る」とあります。


つづく
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