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要約・平田講座21--100回記念特集  

<テキスト『心の琴線に触れるイエス』>

前回から十字架を悲愛=共苦の頂点とみる井上神学の意味を探っています。

その比較のため、ローマ帝国、ユダヤ教、そしてパウロなどの考えを学んできました。

もう一つ補足しますと、十字架を私たちに対する招き、抱擁とみる見方があります。

ミサの第二奉献文叙唱に「・・・・人々をあなたの民とするために、手を広げて苦難に身をゆだね・・・・」というのがそれで、マザーテレサなどもしばしば言及していたと思います。


p.33.1-E
<十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、質問をする牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが、こと十字架の受けとめ方という点でいえば、ここでも井上神学においては罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。>


十字架即贖罪という一義的な意味づけをするのではなく、共苦=悲愛の象徴、頂点と受けとめる方が、日本人には受けとめ易いと思います。


p.34.1-4
<■救いの原初的経験

たしかにキリスト教とは、「イエスをキリスト(唯一の救い主)」ととらえる信仰であることは間違いないのですが、その捉え方が問題なのです。

イエスを「信じる」というときの内実が問題になるわけです。>


「信仰」というとき、「信じるときの内実」とは、「何を」信じるかだけでなく、「どう」信じるかも含みます。

またこう自問しているとき、すでに私たちは「自分」中心の問いを発しているのかもしれません。

これが転換しないと、真の信仰にはならない。


ルターは「信仰のみ」と言いましたが、そのときの「信仰」とは、「神によって働く信仰」という意味だと自註しています。


『ガラテヤの信徒への手紙』五章六節を、新共同訳では「愛の実践を伴う信仰こそ大切」と訳していますが、ギリシア語原典は「ディ・アガ‘ペース」で、愛を介して(手段・媒介・原因)働く信仰ということです。

この愛は神からの愛とも受け取れます。

ちなみにTEVという英語聖書は「what matters is faith that works through love.」とあり、この愛がどこからの愛とは書いていませんが、スルー=その愛を「通して」働く信仰という意味合いを明確にしています。


そもそも信仰=ピスティスは、むしろ「信頼」というべきでしょう。

井上神父様もそうだし、最近注目されている「ケセン語訳」聖書の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)氏なども「信頼」と訳すべきと言っています。

あちら様が主体で「お任せ」すること。

そう訳し変えただけで、ずいぶん日本語のニュアンスが違ってくる。

さっきの「おまえは何をどう信じるか」といったときの気負いもなくなる、という気がします。


話はそれますが、『マルコによる福音書』一章一五節は、ふつう、「・・・・福音を信じなさい」と訳していた所を、岩波訳聖書では「・・・・福音の中で信ぜよ」と、「福音」を信じる対象でなく、信仰者が置かれている「場」しています。

原語のギリシア語では「ピステウエテ・エン・トー・エウアンゲリオー」ですが、田川建三訳も「なかで」と訳しています。

日本人には、この方がピンと来るように思います。


つづく
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