「南無アッバ」を生きる ホーム » 南無アッバの集い&四谷講座 »要約・平田講座13--100回記念特集

要約・平田講座13--100回記念特集  

第13回

これまでみてきた『パウロを語る』の引用部分を中心に、井上神学の救済論の特徴を見ていきます。


テキスト『心の琴線に触れるイエス』p.24からです。


A.
<■罪と苦しみ

イエスによる救いについて、旧約聖書の『イザヤ書』五三章は預言的に語っています。

有名な「主(苦難)の僕」に関する次の箇所から引用してみましょう。

(マタイ八・一七参照)>


ここでなぜ『イザヤ書』を持ち出したかと言うと、短い引用のなかで、罪と苦しみとイエス、この三者の関係をにおわせる旧約の箇所だからです。


・イザヤ書の概要を示しますと――

三大預言書『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』の一つ。

著者について、聖書自身は八世紀に活躍したイザヤに帰す。

が、学問的には三つ、少なくとも三人(以上)の著者がいたと考えられる。

一~三九章「第一イザヤ」、

四〇~五五章「第2イザヤ」=バビロン捕囚~帰還、

それ以後が五六~六六章「第3イザヤ」

新約聖書中、最も引用されている。

とくに、メシア預言の文脈=第二イザヤ、となります。


では「苦難の僕の詩」の中味を見ていきましょう。


p.25B.
<「彼(苦難の僕)が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであった‥‥(四節)


彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。


彼の受けた懲らしめによって

  わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(五節)」>


この「苦難の僕」については、古来いろいろ解釈されてきました。

①教会の伝統では「イエス」、

②集合的に「イスラエル民族」、

③その他の個人、預言者等々。


C.
<「主の僕」(キリスト教の解釈ではイエス)が背負ったのは、わたしたちの「病」や「痛み」(四節)であり、「背き」や「咎」(五節)であったとされています。

ここで「病」や「痛み」を〝苦しみ〟全般ととらえ、「背き」や「咎」は〝罪〟と読み替えてもよいと思います。

七十人訳聖書も、「この人はわたしたちの罪を担い、わたしたちのために苦しみを受けた」と訳しています。

するとイエスが担いかつ癒したのは、わたしたちの苦しみと罪の両方ということになります。>


「七十人訳聖書」=Septuaginta[ラ]ギリシア語訳旧約聖書です。

BC三~一Cにかけ、アレクサンドリアのディアスポラでヘブライ語からギリシア語へ翻訳されました。

七十二人が七十二日間で訳した、という伝説からきています。

新約の引用は主に七十人訳からなされています。

現存する旧約のヘブライ写本より古いので、本文批判では重要なものとなります。


ここでは、わたしは「主の僕」の主体を議論するのではなく、客体=背負ったものを問題にします。

罪と苦しみということです。


まとめてみますと、


病・痛み→苦しみ、

背き・咎→罪、


となります。



つづく
関連記事


category: 南無アッバの集い&四谷講座

tag: 心の琴線に触れるイエス,
tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/2889-22b2cbe5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop