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要約・平田講座1(3)--100回記念特集  

そのずっと後ですが、U先生は、亡くなりました。

それで奥様が残されたのですが、この方もずっとカトリックに興味を持たれていました。

もと中学の先生で、もう退職されていましたが、歌人でしたから、そういうこともあって、この「余白の風」に原稿を頂いたこともありました。

ご主人が亡くなったあと、この奥様から相談を受けました。

「平田さんに、ちょっと、折り入ってご相談があるの・・・・」と言われる、「あなたは、カトリックになって何年にもなると思うけど、〝復活〟ってどういうことなんですか?」と。

「あなた、当然知ってるんでしょ?」みたいな感じで聞かれたんです(笑)。

それでしどろもどろ、当時知ってる知識で答えました。

なんで奥様が、復活に興味を持たれたかというと、実はこのご夫婦は、周囲がうらやむくらい熱烈な恋愛の末に結婚された。

結婚できなきゃ死んでやるみたいな(笑)

情熱家同士でしたから、駆け落ちして家庭作って・・・・という感じで――だから、自分が死んで復活するかどうかというより、先になくなった御主人に会えるか、ということが問題だったんですね。


御主人がなくなって、一人でだんだん老いていく。

U先生も癌で亡くなったのですが、こういうところで病気とか苦しみとか、さっき触れた告解にまつわる罪の問題とか、そして復活。

そういう問題というのは、日本人なりに大きな関心がもたれるんだろうなあと、感じたのです。

そして、こういうものが日本人として受け止められないと、なかなか洗礼というところまではいかないのではないかと思ったのです。


わたしたちも、遠藤さんや井上神父のように強烈な個性の持ち主と会ったときなどは、告解はどうしようかとか、洗礼受けたら教会に月何回いかなきゃならないかとか、そういうことは考えないでしょう。

えいや!といって洗礼を受けちゃうかもしれない(笑)。

だけど一般の目から見れば、聖書を読んでも、こういうことでひっかかってくる人がいるのではないか、と。


これも余談ですが、このU先生の母方のお祖父さんというのは、埼玉県の東秩父村の村長さんを務めていた方です。

若い頃から求道心が強く、神道、仏教、プロテスタントいろいろな宗教に求道して、最後にカトリックになったのだと、U先生に聞きました。

上智のH・ホイヴェルス神父様から洗礼を受け、月に一回、何時間もかけて東京のミサにあずかっていたということです。

この方が、村で最初のキリスト者になった高田群次郎という人です。


ですから、高田氏のお葬式のときは、J・カンドウ神父とともに、当時上智の学長だったホイヴェルス神父もいらっしゃったというわけです。

さらについでながら、私事を述べさせていただきますと、そのときに、いわば鞄持ちとして若いフランス人の神父が一人ついてきました。

ローランド神父というパリミッション会の方ですが、そのときからU先生と神父様は親友になります。

そして三十年後、受洗したばかりの私が浦和教会に所属するとすぐ、そこの主任司祭としてローランド様がいらっしゃったのです。

そこで「尊敬する人」について二人でたまたま話しているときに、U先生がお互いにとって共通の恩師、親友だということを知ってたいへん驚きました。

本当に不思議な御縁としか言いようがありません。

(このローランド神父については、拙著『俳句でキリスト教』一二一頁参照)アッバのお導きを感じずにはいられません。


話を戻しますが、そんなところから、私も少しものを書いて、神学者とかではなくて、一般の求道者としてわかることを書いていこうと思ったのでした。


こうして、「復活」と「罪」というきっかけができたのですが、井上神学ではこれらをどのように受けとっているのかなと、とくに意識して考えるようになります。

井上神父様のひとつの特徴としては、たとえば「贖罪」とか「犠牲」とかは、ご本や話のなかにほとんど出てこない。これは佐古純一郎さんと対談をした『パウロを語る』にも書かれていますが、神父様ご自身は意識して使っていない。

「十字架の犠牲」とかですね。

それは生で言っても日本では通じない。

ですから「罪」から行くよりも――「罪」と「苦しみ」はキリスト教ではコインの裏表のようですけれども――どちらかというと、「罪」より「苦しみ」からアプローチした方がいい、それが井上神学のひとつの特徴と言えるのではないかと、思うのです。

もちろん、だからといって、罪を否定しているわけじゃありませんが――

それで、苦しみを中心にするとどうなるか。

いま図版の3(省略)を見ていただいてますが、その下の方、イエス様の全生涯を重視する発想ですね。

つまり「イエス様は十字架にかかって復活した」というときの「十字架」や「復活」だけを強調するのではなく、お生まれになったときから、たとえ話も含めて、とくに、苦しんでいる人や病んでいる人に、どうやって接していたか、どういうまなざしをそそがれたかということを、重視していく、ということです。


つづく
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