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要約・平田講座1(2)--100回記念特集  

 わたしたちの求道生活を導いてくださるのは、それはもちろん神父様ではあるのですが、その奥にはこの図の矢印で描いたようなイメージで、後ろに控えているアッバだということ。

アッバに呼ばれているということ。

あの世から呼ばれた――お迎えがくるなどと日本人のお年寄りは、半分冗談で半分本気で使うことがあるかもしれませんが、わたしはこれはいい表現だと思います。

あの世から呼ばれるというと、なにか死のことばかり考えているようですが、そればかりじゃない。

あの世っていうのは天の国の言い換えだと思うのです。

そういう意味で言えば、アッバが神の国から呼んでいる、導いている。

そしてそれは死んでから始まるのではなくて、もう今から始まっている、というのがキリスト信仰だと思います。


そういう意味で言えば、井上神父様の書かれたもの、言われたことにわたしたちが少しでも共通点を見つけていくということは、アッバが引っ張っているということと同じだと思います。

そういうふうに考えてわたしも連載を始めたのです。


連載では、「U先生」と書きましたが(『心の琴線に触れるイエス』17頁以下)、高校時代の恩師だった英語の先生のこともわたしが何か書こうと思った大きなきっかけになりました。

U先生は本来の専門はフランス語教育でしたので、カトリックに非常に興味を持っておられました。

で、わたしも妻も同じ高校の同窓生だったものですから、仲人をしていただいたり――ですから、井上神父様にも一度お会いになっています。

そういうことで、卒業後も何回かお宅にお邪魔していました。


で、わたしが洗礼を受けた報告に行ったとき、すごくびっくりされたのです。

「きみ、よく思い切ったね」というのです。

一九八一年のことです。

どうしてそんなにびっくりするのかなあ、と思い、話しているうちに、わかってきました。

先生はカトリックになりたいと思っていたのです。

ある意味じゃ日本よりフランスが好きなような方ですから、そういう意味では井上神父様と合わないかもしれませんが(笑)、カトリックになりたくても告解がダメだ、ということなのです。

もちろん信者ではないから、やったことはない。

わたしたちも同じですが、少なくとも私の場合は、告解のことをそこまで考えてはいなかった、あることは知ってましたが。

でも、U先生は、頭の方から入っていこうというか・・・・ともかく「よく、きみ、そういうことに耐えられるね」という調子なのです。

わたしは、「ああ、そういうものなんですかねえ」そんなに苦痛なのかなあ、などとその時思ったことを憶えています。


おそらくこの問題の裏には「罪」ということ、そして自分の犯した罪を人前でしゃべる、というカトリック教会の秘跡に対する日本人の感性、という問題があるのではないかと思ったのです。


つづく
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