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13.十字架から復活へ  

他にもイエスの十字架と復活について井上神父はさまざまに述べていますが、ここではとくに〝生老病死〟を念頭においた、「クリスマスが語りかけるもの」と題した講演(一九八三年)から引用したいと思います。



「この頃私は、挫折とか病気とか死とか、およそふつうには、人生でのマイナス面としか考えられていない、そして何とか避けることができれば避けたいというふうに考えられていることがらに積極的な意味を特に認めているところにキリスト教という宗教の特徴があるのではないかと思うようになりました。

そしてそれをもっともたんてきに示しているのが、あの苦悩と屈辱の中でのイエスの十字架上の死の姿であると思うのです。

裸で大衆の前で十字架につけられるという屈辱にたえるということは、イエスにとっては、ある意味で肉体的苦痛以上のものであったかもしれないと思います。


私たちキリスト者は、私たちが神のみ手に摂取されるしあわせをつかみえたのは、神が馬小屋から十字架までのあの色あせた、苦しみのスッテンテンのイエスの生涯を通してであったと信じています。

そしてそれはとりもなおさず、寝たきりの老人の生活が私たちの目にはどんなに悲惨と屈辱と無意味な苦しみの生活にみえようとも、神はそのような生活を通して人々の心に働きかけるのだということを信じているということであります。

従ってたとえ寝たきりの、元気な人の生活の足をひっぱることしかしていないようにみえる老人の苦しみの生活でも、キリスト者にとって無意味な生活というものはないのです。

それは、キリスト者にとって、私たちの生活の苦悩と挫折と屈辱は、すべてそれを素直に受容する限り、イエスの十字架の死の苦悩と屈辱にあずかるものだからです。

‥‥人の目には悪臭のただよう、みじめな死にむかっての何日かの生活も、それを素直に受け入れる限り、大へん大きな意味を持っているのだということだと思います。

それはイエスの十字架の死の意味にもつながっていくものです。


‥‥復活というのは、‥‥神の御手にあげられたイエスが、三次元の次元を越えた永遠の次元において、いまも私たちを見守っていてくださるということであります。


泥まみれになった一葉の紅葉が、己れを無にして無心に散ったが故に、秋風を私たちに告げているように、馬小屋から十字架までの一見色あせ挫折したようにみえるイエスの生涯もまた、神の働きの偉大さを告げるという、深い重大な意味をもっているのだということになるわけです。」

(『人はなぜ生きるか』一九七~二〇〇頁)


ここには、イエスのこの世(三次元)での全生涯――病人や罪人の友となり、惨めに死んでいった生涯が十字架に集約され、さらにそれが復活を通して、御父により超三次元の世界=神の国へとアウフヘーベン(aufheben)されたのだ、という信仰を読み取ることができます。

そしてわたしたちの苦しみを、十字架を頂点として共に担ってくださったイエスが、さらに復活を通して御父のもとへ、神の国へとわたしたちをまちがいなく送り届けてくださるのだ、という確信があるのです。


こうみてきますと、かの「対談」で語られた「十字架より復活・・・・」という井上神父の弁はむしろ、「十字架から復活へ」という意味合いを持ったものとして受け取るべきではないかと思います。


つづく
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