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12.復活において完成する救い  

これまで井上神学は、イエスの全生涯の重視、十字架の共苦(悲愛)的意味の強調、という特徴を持っていることを見てきました。


このことから発展して、佐古氏との対談で指摘されていた「十字架より復活」に重心を置くという点について考えてみたいと思います。


もう一度、当の対談のなかから井上神父の言葉を注意して拾ってみましょう。

( )内は前後の文脈から推してわたしが補足した言葉です。



「私は十字架というよりも、やっぱり復活じゃないかと思う」

「これからの私たち一人一人の苦しみというものを、あそこ(十字架)においてイエスはすでに受け取って、神様のもとにさし出してくださっている」

「(イエスの方から)こちらに来てくださって、みんなをぞろぞろと愛で包んで、また向こう(神の国=神の支配)に戻ってくださった‥‥。

私の人生を先につかまえてくださって、これからの死の苦しみを、もうすでに先に一緒に歩んでくださって、もう(神の国へ)行ってくださったから、私の人生は保障されている‥‥、キリストが(神の国へ)もっていってくださった。

自分が、実際は罪人なんですけれども、‥‥むしろ向こう(イエス)のほうが(先に私の弱さや罪深さを知って、母のような愛で私を包み込むことを)やってくださっている」

「私はいつも十字架で思うんですけど、復活の、秋の空のような、すうっと澄んだ、平安の中にある十字架がほしいですね。

‥‥十字架だけで、復活がないでしょう、普通は。

‥‥(十字架は)復活に包まれていなきゃいけないと思うんです。」

「だから、十字架を見ているとき、その十字架のありがたさ、やっぱり後ろの御父の大らかな、それこそ秋の空のような静寂に包まれているというのがいいですね、私はやっぱり。」



いかがでしょうか。

このように語る井上神父の救済論をひとことでまとめてみると、次のようなものになります。


イエスに出会った福音書のなかの人たちと同じように、罪や弱さや特に苦しみにあえいでいるわたしたちを、全生涯にわたって自ら手を差し伸べ、積極的に担ってくださっているイエスの共苦的=悲愛の姿勢は、十字架において頂点に達し、それがまるごと復活を通してアッバなる神に受け入れられ、神の国へと抱き上げられるのだ、と。

このようにイエスによる救いを語る場合、十字架を経て復活において完成するという点が強調されているところに、井上神学の大きな特徴があるのではないかと思います。


つづく
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