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11.現代日本の神学を  

この点に関して、井上神父は言います。

「ここで重要なことは、現代の日本の人たちにこの真理を説明するとき、二〇〇〇年前の弟子たちが使った表現を、そのまま鸚鵡のように繰り返すだけであってはならないということである。

ギリシア語を日本語に翻訳しなければ、日本人には新約聖書は読めないということは、誰でもすぐにわかることである。

しかし、実は表現についても全く同じことがいえるのであって、その表現をも現代日本人にわかりやすいように翻訳しなければ、決して今の人たちには理解できないのだということ、このことは決して忘れられてはならないことであろう。

現代日本のキリスト教神学が、どうしてもうまれてこなければならない理由がそこにある。」

(『風のなかの想い』七七頁)



あの二〇〇〇年前の「原初的経験」を、現代の、しかも日本に生きるわたしたちがどうとらえ、どう表現していくか、それを模索することが重要であり、それこそが現代のわたしたち日本人キリスト者の使命なのだというのです。


右の『風のなかの想い』の共著者である山根道公氏は、「初めて、(キリスト教の)信仰告白が日本の詩といわず、日本の文学的言葉となった」(井上良雄)といわれる八木重吉を語るにあたり、次のように書き出しています。


「ひとりの真摯な求道者が自らの日本的心性に従ってキリストの道を追い求め、ひとすじに生き抜いたなら、その生の軌跡はおのずから日本的でありかつキリスト的なものになるであろう。」

(同一四六頁)


ここにいう日本人キリスト者の「生の軌跡」とは、ひとり重吉のような詩人だけの問題ではありません。

明治期の思想家・内村鑑三は、「実験」という言葉を好んで使い自らの信仰体験を、彼なりに表現しようと苦心しました。

戦後の椎名麟三氏、先年亡くなった遠藤周作氏や三浦綾子氏も、日本人キリスト者としての信仰に生き、その表現に一生をかけました。


私事になりますが、わたしが最初に出版したエピグラム集『今を生きることば』(女子パウロ会)に対して、三浦綾子・光世夫妻から当時いただいたお手紙は、「・・・・どうかいよいよ信仰に立って、キリストを証しされるお働きをおつづけ下さい。

『今を生きることば』のような優れた証しの著を、またお書き下さり、ご活躍下さいますように。

全能者の御祝福を祈りつつ・・・・。」(一九九四年四月九日付)と結ばれていました。

わたしはこの言葉を、単なる社交辞令としては受け取っていません。

拙いながらも自分なりに、日本人としてキリスト信仰を正直に表現していくことは、わたしの責務だと思っているからです。


もちろん、いわゆる創作・表現活動に限りません。

イエスの弟子以来綿々と続く信仰を継承しつつ、これまで多くのキリスト者が悪戦苦闘してきた道のりに学びながら、心から納得できる神学を模索すること、そして生きること、それはすべての日本人キリスト者に課せられた使命なのだと思うのです。


つづく
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