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9.十字架の意味  

さて、その上で井上神父は、どちらかといえば「十字架というよりも復活」を救いの中心に置くと、先の佐古氏との対談で述べています。これはどういうことなのでしょうか。


そこでまず、井上神父が「十字架」をどういうものとしてとらえているのか、を見てみましょう。


神父は、牧師さんたちの集会で講演をしたとき必ず出るのが、「井上神学には十字架がないのではないか?」という質問だといいます。

十字架がなければイエス教ではあってもキリスト教ではなくなってしまう、という心配が根底にあるのです。

どうも井上神学に対して疑問を投げかける牧師さんたちが考えるキリスト教は、佐古氏に代表されるように、「わが罪の自覚」とイエスの十字架による犠牲・贖罪、それが救いの中心にあるようです。


一方井上神父は、イエスの十字架を、人間の罪の犠牲(sacrifice)としてよりも、「私たち一人一人の人生の苦しみを」「mitleidenして(共に担って)くれた」もの、あるいは「汚れを取り去った、神との調和を回復した」ものとして受け取っています。

十字架をイエスの共苦的姿勢――悲愛(「悲」は「共に」の意を含む=後述)の頂点に位置するものと考えているのです。ですから、「井上神学には十字架がない」ということにはならないのです。


十字架による救いというものの「ニュアンスの置き方」が、質問をする牧師さんたちのキリスト教とは違うということです。

けっして罪の問題そのものに関心がないわけではありませんが、こと十字架の受けとめ方という点でいえば、ここでも井上神学においては罪の問題よりも苦しみの問題に重心があるといってよいでしょう。


つづく
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