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7.罪と苦しみ  

イエスによる救いについて、旧約聖書の『イザヤ書』五三章は預言的に語っています。

有名な「主(苦難)の僕」に関する次の箇所から引用してみましょう。

(マタイ八・一七参照)


「彼(苦難の僕)が担ったのはわたしたちの病

彼が負ったのはわたしたちの痛みであった‥‥(四節)

彼が刺し貫かれたのは

わたしたちの背きのためであり

彼が打ち砕かれたのは

わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって

  わたしたちに平和が与えられ

彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(五節)」


「主の僕」(キリスト教の解釈ではイエス)が背負ったのは、わたしたちの「病」や「痛み」(四節)であり、「背き」や「咎」(五節)であったとされています。

ここで「病」や「痛み」を〝苦しみ〟全般ととらえ、「背き」や「咎」は〝罪〟と読み替えてもよいと思います。

七十人訳聖書も、「この人はわたしたちの罪を担い、わたしたちのために苦しみを受けた」と訳しています。

するとイエスが担いかつ癒したのは、わたしたちの苦しみと罪の両方ということになります。


ユダヤ教世界では一般に、罪は苦しみの原因であり、苦しみは罪の結果と考えられていました。

ですからイエスの弟子たちが一人の盲人を見たとき、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(ヨハネ九・二)と質問したのです。

罪と苦しみはいわば比例関係にあると考えられていたのです。

(もちろんそれだけでは割り切れないからこそ『ヨブ記』のように、〝善人がなぜ苦しむのか〟という問題も提起されてはいたのですが。)

このときイエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない」(九・三)と宣言し、罪と苦しみの因果関係を明確に否定されたのですが、いずれにしろイエスは、人々の罪と苦しみの両方をひっくるめて背負い、癒す「神の子」として受け取られたわけです。

実際、福音書にある病気治癒の奇跡が行われるときには多くの場合、同時に罪のゆるしの宣言がイエスによって行われていることからも、このことは明らかです。

罪のゆるしと苦しみの解決、これはどちらもキリスト信仰の重大関心事であることに違いありません。


ただ問題は、この二つの課題に対するまさに「ニュアンスの置き方」なのです。

イエスによる救いについて、わたしの罪、人類の罪という問題の解決を中心に語るなら、十字架の犠牲、イエスの贖罪を強調するキリスト教になるでしょう。

これは先の対談にもとづいていえば、佐古氏がイエスによる救いには、「どうしても十字架を置かずにいられない」と語った視点、あるいはパウロがユダヤ人に対して語った視点に代表されます。


一方、井上神父の場合は、イエスによる救いはまず、「イエス・キリストご自身」にあり、十字架と復活は「キリストの救いの業のいわば最終点」である、というのです。


つづく
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