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1.最初の宗教体験  

朝晩、神棚や仏壇に供物や線香・灯明を欠かさず、盆や彼岸には必ず墓参りに行く、そういう家庭にわたしは育ちました。

父の従兄が御嶽神道の神主をしており、その「おじさん」が毎月私の家に来ては、父をはじめ家族全員が神棚の前に座らされました。

わたしは、意味のわからない祝詞(のりと)に飽き飽きしながら、コックリコックリよく舟をこいていたものです。


ただ、神棚の前でかしこまっている、しつけに厳しく、信心深かった明治女の祖母や、七年のシベリア抑留でカリエスを患い、わたしたち子供が生まれたあとも仕事を休みがちだった父の後ろ姿を見るにつけ、その祖母や父よりも権威あるものがこの神棚の奥にいるのだろうか、とふと思うこともありました。

それは、なにものかに対する畏れと、なぜか哀しみの入り混じった不思議な気分でした。


小学校から中学にかけてのわたしは、表面上は明るく振舞ってはいましたが、恒常的に頭痛、腹痛、じんましん等々の、原因のはっきりしない身体上のさまざまな不調に悩まされました。

そうしたなかで、生きることの大変さ、将来への不安などを漠然と子供心に感じていたようです。


教職に就いて二十年、またわたし自身も三人の息子をもって、ときどき三十年以上も前のことを振り返ることがあります。

教え子たちにアンケートをとって、今一番気になること、悩みは何かと聞いてみると、やはり受験や就職の悩みが圧倒的です。

これは今も昔も変わりません。

あの頃わたしも、無味乾燥な受験勉強に何の意味があるのか、そもそも自分は何のために大学へ行こうとしているのか等々、さまざまな迷いや葛藤がふつふつとしていたことを思い出します。

世間では学生運動がすでに下火になり、かわって「しらけ」という言葉が流行り出した頃でした。


それでも一九七三年、第一次石油危機が起こった年、高校三年生になったわたしには、今でもはっきり憶えている、進学の動機ができていました。

それは「是非とも大学四年間のうちに、人生の方向性を見出そう」というものでした。

自分が抱えていたもやもやした心を払拭して、迷うことなく社会に出たいと考えたのです。



先日、書棚を整理していたら、高校時代の修学旅行文集が出てきました。

そこに当時のわたしの拙い歌が一首残っています――

 霧かかる無月の海のきびしさに新たに出づる暖かきもの
(淡路灯台にて)

今振り返れば、学生時代の遊民的生活から、人生に迷うことのない「方向性」を見つけようなどとは甘すぎる考えであることはよくわかるのですが、当時の気持ちとしてはそれなりに真剣なものでした。


つづく(〚心の琴線に触れるイエス〛より)
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