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求道俳句誌「余白の風」第234号 2018年9月発行   

以下はブログ版です。

*プリント版は↖サイドバーをご参照ください。

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養いましょう。


平田栄一求道俳句集第三弾! 総ルビ付き、悲愛のこころを発行しました。

おかげさまで、ダイジェスト版『余白の風』集は好評のうちに完売となりました。

会員の皆様には心よりお礼申し上げます。

さて、この度早くも、第二句集『アッバを呼ぶ』に続けて、著者三冊目の求道俳句集をお届けいたします。

本句集には、自由律俳句を含め第二句集に採らなかった三一九句を収録しました。

どなたにも読みやすいように、全作品にふりがなをつけました。ぜひご一読ください。

(A5版、一七〇頁、ソフトカバー、表紙写真・デザイン著者、定価一、〇〇〇円+〒一八〇円)

お申込みは直接、平田まで。


会員作品とエッセイ *選評

こころ  練馬・魚住るみ子

かけがへの無き日々ならむ百歳に近づくわが夫老い痴れる所作 南無アッバ


*お手紙に「連れ合いが九十九歳、この十一月には百歳になります。

私九十二歳、長寿といふアッバのお計らひをしみじみ噛みしめ過ごす日頃でございます。」

とありました。

南無アッバの心がにじみ出ています。


名古屋・片岡惇子

蝉時雨いのちと命黙に入る

八月の悲しみ止むやわが臓器

弟背に口びる咬みし八月九日

のうせんの天への梯子外されて

絢爛の空に空なる流れ星

命のパン受けて八月透明に


*①蝉と私の「いのちと命」。

蝉時雨の通奏低音のうちに互いに黙す。

そのとき、まことのイノチの声が聞こえる。

⑥そのイノチは「パン」の形をとって、私たちを清めて下さる。


豊田・佐藤淡丘

池平ら空を映して水澄めり

偉大なる音なき世界流れ星

牛の声朝顔開く牧の柵

湖に出て帰燕近しと水敲(たた)く

朝涼や面(かほ)を平らに受けとめる


かの福沢諭吉翁は、明治四年に「ひゞのをしへ」と題し、その冒頭で、「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこゝろにしたがふべし。

たゞしこゝにいふてんとうさまとは、にちりんのことにはあらず、西洋のことばにてごっどゝいひ、」・・・云々と書いている。

これぞ正に「南無アッバ」の先取り説教師ならではの名言と思った次第です。


*福沢先生といえば、幼少のころ神仏などいない、といって鳥居だか御神木に小便をかけた、というような話が『福翁自伝』にあったように思います。

右の「ごっど」には、どんな意味がこめられていたのか、興味深いです。


昭島・新堀邦司

真青なる太平洋や夏岬

夏燕小町通りの賑へり

歌垣の恋の筑波は青嶺なす

靑嶺より流れて恋の男女川


*①海というと私が思い出すのが、井上神父が「キリストの体」を説明するときに使った、大海に浮かぶ底の抜けた樽のたとえです。

私たちは根底で支えられながら、皆つながっている。


高知・赤松久子

異常気象くぐり育ちし桃なりき

原爆忌止んで又降る土佐の雨

絹(すじ)雲(ぐも)をきれいと言ふ子愛(いと)おしき

信仰を運ぶは愛よ夏つばめ


*①日本ではまだはっきり言っていないようですが、諸外国では明確に現在の異常気象は温暖化のせいだと言っているそうです。

②「原爆」も温暖化も人間のしわざです。

キリスト者としてわたしたちは、どう応答すべきなのでしょうか。


大阪・島一木

念禱のひととき水は澄んでゆく

身にしむや主の貧しさとわが弱さ

諸聖人集まり来たる小春かな


*②「キリスト教とはどういうものですか?」と聞かれることがあります。

その時々でいろいろ考えて答えてきたのですが、今なら、「喜びも悲しみも苦しみもすべてをイエスと共に生きること」と答えます。


『アッバを呼ぶ』自句寸感  蓮田・平田栄一

秋の地に立つあの方へ続く地に

コスモスは風に揺られるために咲く

実のなる木ならぬ木もよし冬に入る

どこまでもゆるされて雲風に乗る

東風吹かばとりどりの花祈り合う


①時空を超えて主と共なる幸。

②万物に使命あり。

③④大いなるゆるしに生きる幸。

⑤おみ風さまに応えて互いに祈る。


〇求道第二句集『アッバを呼ぶ』平田栄一著
(A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)好評発売中!


要約・南無アッバの集い&平田講座

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇第五一回(続)

野呂氏は論文「今日における神観の一問題」(立教大学キリスト教学会)のなかで、興味深い指摘をして、北森神学を批判しています。

野呂氏自身北森に教えられ、大きな恩恵を受けたことを感謝しつつ述べています。

それを参考にしながらまとめると、次のようになります。

敗戦直後の精神的飢餓を癒すものを求めていた日本人には、「神の痛みの神学」は「苦しめる人々のために、神も痛み、
苦しんでおられる」という響きをもって受け入れられた。

ところが実際は、「神の痛みの神学」の発想は、日本が中国に侵略していった一九三八~九年だった、と岩村信二氏(一九二〇年生)との対談で北森本人が明かしている。

(ちなみに若かりし頃の私<平田>は、岩村氏から丁寧なおはがきを頂いたことを思い出します<一九八〇年>)。

北森に、当時の他の良心的知識人同様、日本の侵略に対する「良心的苦悩」--罪意識か(平田)--も影響していたのではないか。

いずれにしろ、「神の痛みの神学」は敗戦後の日本人に寄り添うということを意図して出てきた神学ではない。

イエスの痛みは、罪人によって受けた痛みであり、それが御父に直結して痛む。

つまり、今の文脈に置き換えると、イエスは御父とは「共に」痛むが、苦しんでいる人間と「共に」という要素はない、ということです。

ここらあたりが石川氏の見解につながってきます。

人間の罪~神の愛が怒りに変容~最愛の子を十字架につける~神の痛み

すなわち、戦後、北森の「神の痛みの神学」を、「苦しむ人のために神も痛み苦しむ」という意味で多くの人に受け入れられたのは、
誤解にもとづくものであった、というのです。

北森にとって、「神の痛みは、あくまで人間の罪と救いに絞られた概念」だったのだ(p.5/30)、といいます。
(つづく)


〇南無アッバの集い&平田講座

(於・四谷ニコラバレ)日時9/22(土)午後1時半~。
10/27(土)同、11/24(土)同。


◎第100回記念講座のお知らせ

 来たる十月二十七日は、本講座が二〇〇九年に始まってから百回目に当たります。

 そこで当日は、今号巻頭でご紹介している新刊、求道俳句集悲愛のこころ』を使って、「俳句でキリスト教あるいは井上アッバ神学を考える」というテーマで特別講座を行う予定です。

 どなたでもお気軽においでください。

 なお終了時、皆さんで記念写真を撮る予定です。


ーー「余白の風」入会案内ーー
どなたでも参加できます。購読のみも可
*年六回奇数月発行 
*年会費千円(送料共) 
*採否主宰一任(本会の趣旨にそって添削する場合があります。) 
*締切=偶数月二十日 
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