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求道俳句誌「余白の風」第233号 2018年7月発行  

以下はブログ版です。

*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。

俳句や短歌をつくりながら、

「南無アッバ」の心を養いましょう。


会員作品とエッセイ

*選評

高知・赤松久子

四万十は四十一度かき氷

世の終り示すが如き猛暑の日

連日の猛暑や青き星なれど

熱中症知らぬ球児の生命力(いのち)かな

弟より「長生きして」と桃届く

*局地的な集中豪雨があちこちにあって、

たくさんの方々がなくなっています。

「猛暑」に熱中症で倒れる方も。

日本人の自然観は、

やさしさだけではない厳しさも十分承知の上で、

しかし本質を母性に見ているように思います。


豊田・佐藤淡丘

葉桜の影重くして池に垂れ

ひれ伏して祈りのあとの木下闇

山法師山高帽の宣教師

山桃の樹に攀じて観る碧き海

峡の池一と声籠る牛蛙

エジソンという、今から百五十年前の発明家に、

たった一つ言葉の発明があるとされる。

それは「ハロー!」(Hello!)というデンワの呼びかけ音だそうです。

日本語で言う「もしもし」ですね。

私も今信仰の発信音「南無アッバ」を覚えました。

神への語りかけに手軽で一番身近な発信音だと思っています。

 南無アッバ・南無アッバ と。

*信仰の「発信音」としての「南無アッバ」ですね。

井上神父は、「南無アッバのお守り札」について、

それを「しっかりにぎっていれば、

必ず南無アッバのメールは、

アッバのもとに届いている」と述べています

(選集5、36頁)。


名古屋・片岡惇子

み心のマニラに発つや青嵐

青嵐人通り過ぎ主のみ立つ

夏光る雲海飛行主の栄光

雷雲や抱きつく子らに主の涙

神の手を払ひて落ちる柿の花

多くの人に背を押され、支えによって、

またフィリピンの路上の子どもたちに会って来ました。

彼らが人間らしい命を与えられ、

希望を持って教育を受ける機会が与えられますように!

*イエスは言われました、

「子供たちをわたしのところに来させなさい。」

(マルコ10・14)

「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」

(同・16)

フィリピンの子供たち、

そして片岡さんと共にいますイエス。


大阪・島一木

諸聖人の連祷つづく鳥曇り

復活や柱の陰にひざまづく

ひざまづき祈れる人のおぼろかな

*最近は、教会でひざまずく人が少なくなりました。

どういう形であれ、「祈りの身体性」ということは、

けっして軽視できないことだ思います。


昭島・新堀邦司

ミサ告げる鐘高らかに花明り

狩り暮れて桜月夜となりにけり
  幼子は
縫ひぐるみのうさぎと遊び復活祭

もう一度声を聞かせよ遠郭公

孫とゐてほどよく疲れこどもの日

*⑤これは不思議なものです。

私も孫をもってよくわかりました。

孫は子よりかわいいといいますが、

子育ての時のような気負いがないからでしょうか、

いっしょになって遊び、まさに「ほどよく疲れ」るものですね。


東京・山口佐喜子

花を待ち花を惜しみて老いにけり

花ミモザ子は原発の無き国に

*①「花のいのちは短くて・・・」の名言を想起させます。

人が幸福を感じるのはほんのつかの間。

しかし、この詩は、こう続きます、

「苦しきことのみ多かれど 風も吹くなり 雲も光るなり」。


東京・小熊坂満邦

兜太逝く秩父音頭に春惜しむ

初ミサの白き祭服夏兆す

*①若い頃、金子兜太さんからお手紙を頂いて、

パワーをもらったことを思い出します。

②司祭志願者の減少が問題になっています。

井上神父の「在世間キリスト者」という発想も、

このことと無関係ではないでしょう。


練馬・魚住るみ子

陽光と拡大鏡にも文字おぼろ

観梅や堤内めぐる老二人

百歳へ向ふ歩みや梅見かな

*どの人も初めての齢を生きています。

一歳は一回しかないし、

百歳も一回しかない。

この当たり前の事実が、

人生というものをかけがえのない実存にしています。


『アッバを呼ぶ』自句補注  蓮田・平田栄一

晩鐘のように母の小言を聞く

永遠(とわ)なれば待つこともなし冬の窓

花愛(め)でる心は捨てず捨聖

犬の目にうつばりはなし秋の空

十字架の横木に休む目白かな

*①パスカル『パンセ』のパロディとも。

②時間の感覚の不思議。

③井上神父は一遍さんが大好きでした。

④マタイ七章。

⑤十字架の逆説。


〇『求道俳句集 アッバを呼ぶ

(平田栄一著、A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)

抜粋集『余白の風』

(A4版、二一四頁、定価一、五〇〇円、〒三六〇円)

本誌第一三六号(二〇〇七年)~第二三二号(二〇一八年)まで、

十一年間の会報を一冊にまとめました。

在庫僅少! 

お早めにお求めください。

ご注文は、平田までご連絡ください。


要約・南無アッバの集い&平田講座

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇第51回(14-9-27)

前回はテキストp・55、

北森神学と井上アッバ神学について、

新しい項目<「痛み」と「悲愛」>という所に入りました。

北森氏には「共に」ということがない、

という石川耕一郎先生の指摘をめぐり、

そもそも救済論の出発点が、

佐古=罪、井上=苦ということと関係しているのではないか、

という視点で、

私の推論や、

その関連でデュルケームや青野神学に言及し、

プリント「「ために」ではなくて「ともに」のキリスト論」を紹介しました。

今日はその続きからです。

こういう「ともに」を強調する青野神学からは、

プロテスタントが個人主義だいう先入観が批判されましょう。

また、「ために」の救済論は後から考えた事後預言的なニュアンスがあって、

むしろ「ともに」を強調する方が、

日本人には受け入れやすいのではないでしょうか。

p・55B

<このことに関連していうと、

北森神学は「自分」の罪というところから出発して、

わがイエスの十字架、

わが神の痛み・・・という形で、

基本的に一人称単数で語られていく神学といえるでしょう。

それに対し井上神学は、

「私たち」の苦しみをmitleidenして(「共に」担って)ぞろぞろと愛で包んでいくイエス(先の佐古氏との対談)、

そして、裏切っていく弟子たちを包むイエスの痛みも弟子たちの哀しみも

「共に」包み込む御父の愛(右シンポジウムでの発言)・・・という形で、

二人称複数ないしは三人称複数で語られる神学であるといえます。

この井上神学の「共に」という考えは、

さらにわたしたち人間を含めた生きとし生けるもの、

自然をも抱き込んだ救いの確信へと広がっていきます。>

先にも触れましたが、

最近、Kさんという、井上神学を慕う哲学・神学者とメールなどで交流があるのですが、

その方が「風」96号や私の本などをていねいに読んでくださって、

北森神学について、

野呂芳男という立教の先生の論文を紹介してくださいました。

この方は、一九二五年生れでウェスレーなどを研究された方です。

この論文を読ませていただきましたが、

北森氏を慕いながらも、

その神学に馴染めない教え子としての葛藤がにじみ出ています。

(つづく)


〇南無アッバの集い&平田講座

(於・四谷ニコラバレ)

日時7/28(土)午後1時半~。

8/25(土)同、

9/22(土)同。


***「余白の風」入会案内***

どなたでも参加できます。

購読のみも可

*年六回奇数月発行

*年会費千円(送料共)

*採否主宰一任

(本会の趣旨にそって添削する場合があります。)

*締切=偶数月二十日

*お問合せ:余白メール
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