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アンソロジー井上洋治神父の言葉(44)  

井上神父が創刊した「風」誌に毎号連載しています。
第104号、2018年春

(44)

〇 神中心主義

<『ヨハネによる福音書』は、死に瀕する十字架のイエスさまがおっしゃった最後のお言葉は「成し遂げられた」であったと記します。このお言葉は、日本語訳で受身形で記されるように、原文でも受身形になっています。

つまり、イエスさまの十字架上の死は、イエスさまがご自分に与えられた役割、すなわち人類の救いという役割を果たし終えられた時なのだということでもあり、またそれ以上に、神様、おん父、アッバがご自分の業を御子イエスさまにおいて完成された時なのだ、とヨハネは言っているわけなのです。>(著作選集5、一四頁)

<三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。>(マルコ一五・三四)

<三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。>(マタイ二七・四六)

<イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。>(ルカ二三・四六)

<イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。>(ヨハネ一九・三〇)

これら、イエスが十字架上で口にしたと伝えられる最期の言葉について考えてきましたが、ここで井上神父は、四福音書のうち最も新しいとされる『ヨハネ』では、最後の言葉が「成し遂げられた」であったということ、そしてそれが受け身形であることに注目します。

すなわち、「完成させる」「成就する」を意味するテレオーの受動態テテレスタイ(三人称・単数・現在完了)というギリシア語です。

ちなみにこの少し前、

<この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。>(一九・二八)

の「成し遂げられた」も同じ動詞の受身形が使われています。

井上神父は、ヨハネ一九・三〇が受身形であることから第一に、イエスの十字架死がアッバから与えられた「役割」――使命であったということ、第二に、その使命が死において「果たし終えられた時」――完成の時であったということを読み取ります。

そして第三に、これを同時に人生の主役であるアッバからみれば、「御自分の業」を「イエスさまにおいて」――イエスを通して「完成された時」でもあるのだ、と述べています。

これらのことから、イエスの生死を通じて、その主役はあくまで御父なるアッバであり、それゆえイエスがこの世において果たすべき役割・使命・仕事は、そもそもアッバから与えられたものであること。

そしてその生涯が外から、あるいはたとえ人間イエス本人からでさえどんなに不完全に見えようとも、主役であるアッバから見れば「ごくろうだったね。よくやってくれたね」と言われるような――死をもって完成されるものなのだ、ということ。

さらに、その完成をアッバも御自身のこととして喜んでくださっているのだ、と言っているのです。

解説書では、

<テレオーは『ヨハネ福音書』においてのみテテレスタイという【受け身形】で現れる(一九・二八、三〇)。

……テテレスタイはイエスの死を神の勝利と解釈するこの福音書記者の神学的意図に対応する意味深長な表現なのである。>(『ギリシア語新約聖書釈義事典Ⅲ』三九〇頁)

と言っています。

ちなみに、テレオーと同義のテレイオオーを原形とする動詞が『ヨハネ』には、

<イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる(テレイオーソー)ことである。>(四・三四)

<父がわたしに成し遂げるように(テレイオーソー)お与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。>(五・三六)

<わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて(テレイオーサス)、地上であなたの栄光を現しました。>(一七・四)

などに出てきますが、これらはすべて受け身形ではなく、神の業=使命を自ら積極的に果たそうとするイエスを主体にした記述になっています。

さらに敷衍すると、件のヨハネ一九・二八、三〇節と同じ動詞テレオーの受動態が二コリント一二章にも出てきます。

<すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。>(一二・九)

この「十分に発揮されるのだ」と新共同訳で訳されたテレイタイ「完全にされる」は、現在形の受動態です。これを踏まえてこの部分を少し敷衍してみましょう。

「力は弱さの中で……」というとき、ここでの「力(デュナミス)」は後段から「キリストの力」という意味に解釈できます。

そしてその力が受け身として働く――「完全にされる」とはどういうことでしょう。

「わたしの恵みはあなたに十分である」と言っている「キリストの力が」「完全にされる」というなら、その力を完全にする使役主体はキリストではなく別の方――御父であるということになりましょう。

そしてその力が働く「場」がわたしたちの「弱さ」だというのです。


本稿第一部でわたしは、アッバなる御父と御子イエスとの関係を、「直結構造」的な北森神学に対して、井上アッバ神学は「包括構造」であるということを指摘しました(『心の琴線に触れるイエス』五四頁)。

井上神父が好んだ十字架像に、「十字架のヨハネ」の手になる、十字架を上から見下ろした絵があります。

この作品に象徴されるように、井上アッバ神学は、父なる神が子なるイエスを包み込む――神が主となり子が従となる「神中心主義」的傾向が強いといえましょう。

青野氏が指摘するように、パウロ神学にもそうした傾向が見られます。

まず十字架の悲惨さに目を向ける「十字架の神学」のパウロと、イエスの十字架死を神の勝利に直結させるヨハネとは多くの点で異なりますが、井上神父が注目したヨハネ一九章の件の箇所に関しては、神アッバが主人となり、イエスが忠実なその手足・「作品」となる、という捉え方――「神中心主義」において、パウロや井上アッバ神学と響き合います。

こうして、弱さの骨頂である十字架においてこそ、アッバからのキリストの力が逆説的に発揮されるのです。


〇 「水晶」から「窓ガラス」へ

<ちょうど窓ガラスがこわれなければ、外を吹いているそよ風が部屋のなかに入ってこないように、イエスさまがご自分をこわし、十字架上で死んでくださらなければ、暗い部屋に光を導き入れ、私たちの心の闇に希望と喜びの光をもたらしてくださることもなく、「アッバの息吹」「御(お)御(み)風(かぜ)さま」が私たちをあたたかく包み込んでくださることはなかったのです。

つまりそこにイエスさまの十字架の死の深い、深い意味があったのです。>(著作選集5、一五~一六頁)

井上神父の言葉に接したことのある方にはおなじみの、いわゆる「窓ガラスのたとえ」です。わたしが神父に出会った頃は、よく「水晶」にたとえて、「イエスさまは、いわば水晶のように、百パーセントアッバの御心をそのまま映し出す方だった……」という言い方をしていました。

いつ頃「水晶」から「窓ガラス」にたとえが変化したのか、あるいは多用するようになったのかはわかりませんが、内容的な理由をわたしなりに推測してみますと、ポイントは「水晶」と「窓ガラス」の〝硬度〟ではないかと思うのです。

科学的には硬度即強度ではありませんが、言葉のもつ一般的なイメージとして、水晶(玉)より平らな(窓)ガラスは壊れやすいものでしょう。

右引用文の前段で井上神父は、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ一四・九)という聖句を引きながら、現代人にわかりやすいようにアッバを「外の光」、イエスを「窓ガラス」に見立てて、この二者の性質と関係について語っています。

それを整理すると次のようになります。

①「室内」「部屋」(この世)にはどんなすばらしいものがあっても、「外の光」(アッバの赦しのまなざし)を中に入れることはできない。

②しかし「透明なガラス」でできた「窓ガラス」(イエス)だけは、部屋の一部で(万物とともにこの世に)ありながら、外の光を部屋の中に入れることができる――アッバの赦しのまなざしをイエスだけはわたしたちに届けてくれる。

③また、わたしたちが窓ガラスを見るときは、窓ガラスと同時に外の光や景色を見ている――わたしたちがイエスを見るとき、同時にアッバや神の国を見ていることになる。

このように、キリスト教の正統教義とされるイエスの神人両性を含む信仰内容が、この「窓ガラス」のたとえに見事に「現代風に」表現されていることがわかります。

そのうえで右引用文では、窓ガラスが「こわれなければ」そよ風が部屋に入らないように、アッバの赦しのまなざしをわたしたちの心に「直接」運び入れるためには、「イエスさまは自分をこわし、十字架で死んでくださらなければ」ならなかったのだ、と述べているのです。

このように「窓ガラス」のたとえには、イエスを通してアッバの御業が完成するためには、どうしても十字架の死が必要であった――ガラスはこわれなければならなかったことが説得的に述べられています。

とすれば、「水晶」であるよりは、「窓ガラス」である方が、より身近に実感できるたとえとなるのです。


これは、従来の教義表現で言えばイエスによる「十字架の犠牲」とか「身代わり」ということになりましょう。

しかしそのように表現されるときの贖罪論的な感性が、ユダヤ的背景を持たない日本人には、なかなか実感しにくい、ということを先に見た遠藤周作や井上神父は訴えてきたのでした。

それに比べると「窓ガラス」のたとえは、「贖罪」や「犠牲」といった重苦しい言葉を使わず、「アッバの息吹」や「希望と喜びの光」が強調されており、それらが日本人の感性に訴えるのだと思います。

井上神父に出会った多くの人をして「窓ガラスのたとえはわかりやすい」と言わしめている理由は、この辺りにあるのでしょう。

そして、この死によって「守導者」たる「おみ風さま」(どちらも井上神父の造語)――「聖霊」が弟子たちをあたたかく包み、彼らを回心に導いていきました。

「勧善懲悪の神ヤーウェ」から「赦しの神アッバ」へ、という弟子たちの神観の大転換をもたらした「イエスの赦しのまなざし」。

それが弟子たちの「深層意識にくいこまされ」るためには、どうしてもイエスの十字架の死が必要だったのです。

「そこにイエスさまの十字架の死の深い、深い意味があったのです」と神父が言うゆえんです。

「水晶」から「窓ガラス」のたとえへの移行は、「こわれる」こと、すなわちイエスの「十字架の死」を井上神父が特段に重視していることの証左と言えましょう。

さらにその「死」について、次のようにも述べています。

<イエスさまが十字架上で、孤独な、苦悩にみちた、屈辱的な死をおひきうけくださったことによって、アッバの息吹が、私たち生きとし生けるものの生命の根底をさわやかに吹きぬけるようになったのです。>(著作選集5、九四頁)

二〇〇六年、「風の家」二十周年を記念する「風」特別号、第七二号で井上神父は、新しい「在世間キリスト者の求道性」として、「南無アッバ」の祈りをすすめています。

その前段として右のとおり、イエスの死が、「十字架上で、孤独な、苦悩に満ちた、屈辱的な死」であったからこそ、「アッバの息吹」――無条件の赦しのまなざし、おみ風さま、聖霊が、わたしたちに注がれるようになったのだ、と明確に述べています。


〇 お守り札の効用

<そのようなときでも「お守り札」を枕もとに置いてくださるだけで、パウロが『ローマの信徒への手紙』八章で言っているように、アッバの「おみ風さま」は、私たちの弱さを助けてくださり、イエスさまも、ご自分の背負われた十字架の苦しみに、私たちの苦しみをとけこませ、私たちの代わりに祈ってくださると信じます。>(著作集5、三五頁)

「そのようなとき」とは、「大手術」の後や「死」直前の「苦しみ」「不安」などを噛みしめているとき、すなわちわたしたちが極限状態に置かれたときのことです。

ここでは「そのようなとき」にも井上神父が確信することとして、三つのことが述べられています。

それは、①お守りの役割、②聖霊の働き、③イエスの働きです。

①「南無アッバ」のお守りについてのこの文章(「風」第七二号)では全体として、病気の治癒などいわゆる「現世利益」を否定しています。

しかしお守りによる、この祈りの現世的効用は否定していません。

すなわち、苦しみは「受け入れる人の心の持ち方によってずいぶんと変わる」という、神父自身の経験をもとに、

<この「お守り札」は、あくまでもアッバのくださる苦しみ、喜び、哀しみ、そういったすべてを魂のやすらぎのうちに受け入れることのできる心をお願いするものです。>(同)

と述べているとおりです。

つまり、自己中心的に自分の都合がいいように状況を変えてもらう、ということが「現世御利益」だとすれば、そうではなく、今が「苦しみ、喜び、哀しみ」などどのような状況にあっても、「すべてをやすらぎのうちに受け入れる」ように自分を変えていただくという意味での「効用」です。

生前、井上神父が宗教の役割として強調していた自己相対化――「逆主体的段階」の祈りということです。


②『ローマ書』には次のようにあります。

<同様に、〝霊〟も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、〝霊〟自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。>(八・二六)

「うめきをもって執り成す」方=聖霊=「おみ風さま」が「私たちの弱さを助けて」くれる。

それは、「『お守り札』を枕もとに置く」ことによる。

しかもそれ「だけで」と言い切っているのですから、あたかも「お守り札」が「おみ風さま」を呼び起こすがごとくです。

ここにも「お守り札」の効用を認めていることがわかります。「お守り札」が救いの道具になっている、という言い方は語弊があるかもしれませんが、要はそれだけ井上神父のなかで、自力に頼ろうとしない「南無の心」――自己相対化――お任せの心が強いということなのだと思います。


③そして「十字架」のイエスの助力に言及します。

まず、「イエスさまも」と言っているのですから、②同様、ここでもイエスの祈りはお守り札によって呼び起こされる、と言っていることになります。

第二に、その祈りは「十字架」のイエスの祈りだということです。青野太潮氏が指摘するように、パウロによれば復活して現存するイエスは、「十字架にかけられたまま」の姿です(一コリント二・二、青野『パウロ 十字架の使徒』一一五頁他)。

このことは、②で引用したローマ書の「霊のうめき」とも符合します。

第三に、このイエスの助力の仕方は、神父の表現によると、自らの「十字架の苦しみに、私たちの苦しみをとけこませる」というのです。

キリスト者の間ではしばしば、

<わたしは苦しみをキリストの十字架に合わせ、わたし自身と人々の罪を償います。>(『カトリック祈祷書 祈りの友』「病気の時の祈り」)

というような言い回しを聞きますが、「とけこませる」という表現はあまり聞いたことがありません。

そう言われてみれば、苦しみを「合わせる」より「とけこませる」という表現の方が、共苦の連帯感、一体感、内面化は一層強いように思います(拙著『心の琴線に触れるイエス』八四頁以下「聖徒の交わり――連帯の神学」参照)。

しかもその助力は、「おみ風さま」と同様、イエス=あちらさまが主体となってなされるのです。

そしてなにより、この表現が、井上神父の「遺言」(同『「南無アッバ」への道』三四一頁)にあった提言の一つである「汎在神論」に通じる表現であるということです。

汎神論とは――

<……〝絶対他者としての超越神〟としてだけではなく、同時に〝すべてを包み込んでいてくださる神〟

……汎在神としての神をも同じように認める必要がある……太陽からでてくる光は、あたたかな春の日ざしとして、また秋の夕暮のしずかなたそがれとして、生きとしいけるものをやさしく包みこみ、生かしてくれている

……この灼熱の太陽とおだやかな日ざし、すなわち神の本質とエネルゲイア(はたらきといってもよいかもしれません)はその根元において一つであり、決して別のものではない

……キリスト教は決して汎神論ではないけれども、本質とはたらきを断絶する超越一神論ではなく、汎在(パンエン)神論(テイスム)と呼ばれるべきものなのだ……。>(著作選集5、一四三~一四四頁)

わたしたちが神を理解するために「汎在神論」を推奨する、右の井上神父の弁には「とけこます」という言葉は出てきませんが、「すべてを包みこんでいてくださる神」は、「生きとしいけるものをやさしく包みこみ、生かしてくれている」「光」――「春の日ざし」、「秋のたそがれ」、「おだやかな日ざし」のような方なのだと言っています。

とすれば、この「光」が生きとしいけるものを生かすために、わたしたちを外側から「包みこむ」だけでなく、わたしたちの内側へ、体内へととけこんでいき、わたしたちを中から変容してくだるはずです。

ちなみに、『岩波キリスト教辞典』では汎在神論を次のように説明しています--

<万有内在神論(panentheism):神の内在が全宇宙を包括し、その中に浸透しているとする思想。

それゆえ宇宙のあらゆる部分は神の内にあるが、逆に神は宇宙全体に尽きない超越的存在であることを認める点で、宇宙と神とを同一視する汎神論とは明確に異なる。>(九一三頁)


第四に、この場合のイエスの役割は「私たちの代わりに祈る」ということ。わたしたちが祈って、それに応えてイエスが「やすらぎ」を与えてくれる、というのではないのです。

イエスはわたしたちの祈りの代弁者だというのです。もちろん、その祈りの対象はアッバです。つまり、「やすらぎ」を与える主体はアッバだということです。

イエスはむしろわたしたちの側に立って、いっしょに祈ってくれる。こうした所にも「悲愛」=共苦が強調され、また前述したように、救いにおける井上アッバ神学の神(アッバ)中心主義が表れています。(つづく)
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