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求道俳句誌「余白の風」第232号 2018年5月発行  

以下はブログ版です。

*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。

俳句や短歌をつくりながら、

「南無アッバ」の心を養いましょう。


会員作品とエッセイ *選評


昭島・新堀邦司

足元も手元も不如意春の雪

万物の目覚むる気配春立ちぬ

初ざくら祝婚の歌高らかに(次女 結婚)

春空へ比翼の鳥の旅立てり


*②春はこの世をつくられたアッバの有難さをことのほか感じさせていただける季節。

いろいろ難しい問題は絶えませんが、

根底に神のこの世に対する「しかり」があることを度々思い起こしましょう。


高知・赤松久子

早咲きの桜の許(もと)で別れけり

弟子の足洗ひ給ひし君偲ぶ

(ヨハネ一三)

春宵やナルドの香り部屋に満ち

(ヨハネ一二)

棕櫚の枝飾りて祈る南無アッバ

南無アッバ唱ふる朝(あした)イースター


*受難週から復活祭に至る典礼暦は、私たちの信仰生活にとって、

ことのほか重要な黙想の季節です。

人為自然を問わず、理不尽な艱難をどう捉え、どう乗り切るか、信仰の在処が問われます。


練馬・魚住るみ子

「幸福の王子」を読み終へ胸内にあふれくるもの静かに耐ふる

(オスカー・ワイルド、曽野綾子訳、建石修志画)

百歳へ向ふ歩みを支へゐる一日ひと日はアッバのたまもの


*②ご主人が十一月に百歳を迎えられる由、まことにおめでとうございます。

超高齢社会に向って、老後に何の不安もない、という人はいないでしょう。

信者かどうかを問わず、わたしたちは己が「信」の在処を問われています。
        

豊田・佐藤淡丘

飛花落花ひとりぼっちはさせません

ふじ垂れて厳父のごとき幹を持つ

背戸で聴く夏(なつ)鶯(うぐいす)の次の声

巣燕の黄色い声の横並び

波の跡貝殻ひらう春拾ふ


日の出の時刻が早くなり、「会神の丘」への切り通しも足元が明るくなり、

祈る場所を得た喜びに浸る毎日です。

ひとり跪き、マザー・テレサが教えて下さった祈りを唱えます。

「主よ、私はあなたを愛します。

お任せしています。

信じています。

そして今あなたが必要です」と。

そして最後に、手を広げ、大きな声で、南無アッバ・南無アッバ


*「神を愛するとは、神の掟を守ることです。

神の掟は難しいものではありません。」(一ヨハネ五・三)

「その掟とは、・・・・互いに愛し合うことです。」(同三・二四)それは、自我を

前面に出して頑張ることではありません。

井上神父から学んだ「信即行」。

それは第一に、神にお任せすること、すなわち「南無アッバ」。


名古屋・片岡惇子

白魚の何かを叫ぶ目の黒き

座骨痛賜はり日永四旬節

うすれゆく十字架包み花曇

神の在る胸をたたいて花おぼろ

花散らす摂理の中に立ちつくす

復活祭教会には誰もいない


*②③⑥人は様々に、それぞれの十字架を背負って生き、

そして死んで行く。

この厳粛な事実に目を逸らさず、しかし希望をもって生きていくことができます。

それは復活の光に照らされた十字架を仰ぐことによります。


大阪・島一木

宙に浮くたんぽぽの絮 聖歌あび

十字架の姿ちらつく四旬節

計らずも弥撒にあづかる天草忌

聖金曜ミサに遅れる「わたしである」


*④「わたしである」のカッコ書きが意味深長。

湖上を歩くイエスを見て驚く弟子たちに、主が「わたしだ。

恐れることはない。」(ヨハネ六・二〇)と言った場面、

あるいは、復活したイエスに出会った婦人たちに言った主の言葉

マタイ二八・一〇などを想起します。


東京・富山紗和子

八十四年の道を歩みきてキリストの生命の招きに生かされている

*長く生きれば、それだけご苦労もおありだったでしょう。

しかし、その苦楽のすべてが「キリストの生命の招きに」集約されていきます。

南無アッバ


東京・中庭栞

イザヤ書の苦しむ僕(しもべ)聖灰日

手術の日ミサ捧げらる四旬節

*各々に課される十字架は、自分から求めずとも、あちらさまから与えられます。

それはイエスに倣う限り、すべて復活の契機となります。


 『アッバを呼ぶ』自句補注  蓮田・平田栄一

月満ちるとき花は花を忘れて咲く

いつも遅れてくる青年昭和ゆく

神在(い)ます正造の聖書(ほん)と石三つ

満天の星降る海へ殉教す

三男祥吾われは神の羊なり


*①自我相対化への道。

②大江健三郎『遅れてきた青年』想起。

③田中正造の遺品とされる。

④『沈黙』想起。⑤愚息命名。


平田栄一著『求道俳句集 アッバを呼ぶ』


(A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)ご注文は、平田までご連絡ください。

要約・南無アッバの集い平田講座

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)


〇第五〇回(続)

どういうことかというと、苦しみなら、

たとえば不慮の事故や自然災害など本人の責にならないものがあるから、

それを共に担う=苦労を共にする(シンパシー、同情)、という発想が出やすいのですが、

個人の罪はどこか自業自得という発想が根底にあるためか、

容易には他人がどうこうできない、いっしょに担うことができない。

そういう罪は神の子だけが解決できる(贖罪)、という発想に行きやすいからではないでしょうか。

あるいは、「(私たちではない)私(個人)の罪」を

問題にするプロテスタンティズム的傾向かもしれません。

ちょっと脱線しますが、デュルケーム(1858~1917)というフランスの哲学者がいました。

社会学に貢献した人です。

この人は『自殺論』のなかで、人の幸福度を自殺率ではかる、という発想で、

統計数字をいろいろ出しながら、興味深いことを述べています。

デュルケームによれば、地理的にみると、農村よりも都市、

既婚者よりも未婚者の自殺率が高いなどといったように、

個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高まるとしています。

また、歴史的に見ると、興味深いのは、戦時中が最も自殺率が低い、というのです。


そして宗教的に見てみると、ユダヤ教徒よりもカトリック教徒、

カトリック教徒よりもプロテスタント教徒のほうが自殺率が高いといいます。

それは「うちの宗教」という言葉に象徴されているように、

先祖からの集団意識の強い信仰の持ち方の方が、

「わたしの宗教」という個人的信仰の持ち方よりも孤立を回避できる、という考えのようです。


ただし、宗教別の自殺率の比較は、その後の研究によって統計上の誤りが証明され、

デュルケームが指摘するほどに大きな違いがないことが明らかになっています。

したがって、宗教上の教義の違いが自殺率へ影響を与えるものではなく、

近代化によって集団・社会の結束度が弱まってきた結果として起こってきたものと考えられます。


ちなみに、青野神学から見ると、

「十字架」に「弱さ」「つまずき」「愚かさ」を見るパウロの「十字架の神学」では、

信じる者がイエスと「共に」(苦しむ)というのは、非常に重要な要素になっています。

(プリント「『ために』ではなくて『ともに』のキリスト論」参照】

(つづく)


〇南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)

日時5/26(土)午後1時半~。6/23(土)同、7/28(土)同。


―「余白の風」入会案内―

どなたでも参加できます。

購読のみも可 

*年六回奇数月発行 

*年会費千円(送料共)

*採否主宰一任

(本会の趣旨にそって添削する場合があります。) 

*締切=偶数月二十日 

*お問合せ:メールにてお願いします。

*ブログ「南無アッバを生きる。」に掲載します。
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