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求道俳句誌「余白の風」第231号 2018年3月発行   

以下はブログ版です。*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養いましょう。

会員作品とエッセイ *選評

大阪・島一木
教会の塀の上ゆく春の猫
教会よりもらはれてゆく春の猫
初蝶やマリアをすぎてキリストへ
貝寄風や聖水入れのさざなみも

*④「貝寄風(かいよせ)」は、春の季語。冬の季節風のなごりに吹く西風。大阪住吉の浜辺に打ち寄せられた貝から造花を作り、聖徳太子をまつる聖霊会(しょうりょうえ)に献じた。

昭島・新堀邦司
軒下に薪を積み上げ冬支度
冬怒涛上げて若狭の海荒るる
ラッパ吹く士官老いたり社会鍋
婚礼の日取りきまるや千代の春

*③日本では山室軍平に始まる救世軍。「社会鍋」は年末の風景として冬の季語。行き交う人びとに寄付を求め、慈善行為を行う。

高知・赤松久子
十字架の下(もと)に小さなお雛さま
雛まつり珊瑚の指輪着けてみる
胃カメラの時刻迫りて南無アッバ
巡礼の思ひ出詰まる木の駱駝

*①おめでたい話と「十字架」というのは、信仰を離れてみれば、おかしいことなわけです。そこをキリスト信者として、一般の人にどう説明できるのか、問われています。

八王子・F・井上
四旬節いやしの秘跡につつまれて
コリントの愛示される四旬節
蝋涙の嵩復活の灯へつづく

*②Ⅰコリント一三章の「愛の讃歌」が、とくに身に沁みる季節です。その前章には、井上神父が度々触れた「キリストの体」論をパウロは記しています。他者を否定せず、己が使命を自覚して生きること。

  お年玉   練馬・魚住るみ子
お金にも興味の芽生えし一年生お年玉ははじめてのぽち袋
読書好む若者になれよかし曾祖母吾は願ひをこめて図書カード贈りぬ
  『風の道』
東北本線奥中山の大曲り鉄路は左へ九十度孤を描く

*②読書は著者との対話。ということは、その読書による実りの半分、責任の半分は読者にある。最近は大活字本やオーディオブックなど、高齢者に開かれた読書環境が整ってきました。
        
豊田・佐藤淡丘
骨の火をかざして寒林の人となる
霜柱断崖とみて刮(こそ)げをり
冬三日月指さし入れて切られたる
池平ら水尾一筋に残る鴨
薄氷の溶けゆく先の光かな

「桜守」のように、心から櫻を愛している人は、この時季北風に晒されて天空に揺れている蕾の枝先を殊の外いとおしむ傾向がある、と何かで読んだことがある。満開の花もいいけれど、四旬節にふさわしい耐えた美しさがそこにありました。南無アッバ・南無アッバ

*①「のっけから難問を突きつけてきた。彼は私に尋ねた。自分はいったい、何のために生きているのだろうか。人が生きる、その本当の目的は、何であるのか、それが知りたい。彼は真面目で真剣だった。私は自分の作品『骨の火』の主人公、漆山陽三がうつし身として蘇り、出現してきたような気がした。漆山より遥に純粋一途な人間が、私を詰問しにやってきた、と思った。」(森内俊雄「著者から読者へ」より)

名古屋・片岡惇子
毛糸編む一目の祈り積み重ね
マリア像の衣重くし雪の塵
至福かな主の呼びし日の冬菫
突き詰めれば過去未来も無し春うらら
うららかや命ほぐして主にまかす
天へ天へ花芽の枝の力瘤

*①心をこめて祈るように「一目」ずつ編んでいくとき、④「過去」も「未来」もなく、今だけの時間になる。いや、「時間」とは本来、「今」しかないのかもしれない。

新刊! 平田栄一著
『求道俳句集 アッバを呼ぶ』


神を呼び神を疎ましく生きている
不治の病人(ひと)見舞った日の妻強く抱く
不発弾眠る杜の蝉しぐれ

大きな活字で読みやすい!
初心以来三十年以上にわたって発表してきた求道俳句の中から、定型句を中心に三百余句を厳選して一冊にしました。
(A5版、一八六頁、定価一、〇〇〇円、〒一八〇円)
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要約・南無アッバの集い平田講座
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

〇第四九回(続)

さらにわたしは連載の方でも、パウロの「信仰義認論」は母性原理であると述べました。このことについては、すでに紹介しましたように、パウロ神学者である青野太潮先生もわたしの指摘に対して、「自分も母性的福音理解をしている」と言ってくださいました――イエスやパウロの、つまり新約聖書の神アッバは、「無条件・無制限にゆるす」神ということです。

また井上アッバ神学を「とくに『ヨハネ』的」としたのは、『ヨハネ』には律法遵守を前提とした贖罪論がないからです。「世の罪を取り除く神の小羊」(一・三〇)は、確かに贖罪論的な表現ですが、では贖われるべき「世の罪」とは何か、といえば、ヨハネでは諸々の律法違反による「複数形の罪」ではありません。その証拠に、共観福音書のような律法問答は『ヨハネ』ではまったく見当たりません。

大貫隆氏らの『受難の意味』(二〇〇六年)を参考にすると、原始キリスト教の「罪」には二種類あって、旧約の律法違反と、『ヨハネ』タイプの罪――イエスをキリストと認めないという意味での不信仰(一六・九)です。ですから『ヨハネ』では、この不信仰の「世の罪」を十字架に完成するイエスによる救いのわざが取り除く、となるわけです。ちなみに、青野氏によれば、パウロの罪分類は「複数形の律法違反」と「単数形の根源的倒錯」としての罪です。

〇第五〇回

前回まで、井上神父と直截の面識は無いけれども、井上アッバ神学に共鳴する神学者や神父の信仰を垣間見、テキスト五四頁から、北森神学対井上アッバ神学という形で、「パウロ的」か「福音書的」かということについて補足してみました。
今日は、次の項目に入ります。

p・55
■「痛み」と「悲愛」
さらに、このシンポジウムの最後のところでは、北森神学の「痛み」と井上神学の「悲愛」というキーワードが分析されています。どちらも仏教の「慈悲」あるいは「大悲」の「悲」という文字に着目したことは共通しています。ここから北森氏は、「悲」→「悲痛」→「痛み」というように発想したといいます。一方井上神父は、「悲」のなかに「共に苦しむ」という意味を見いだし、アガペーを「悲愛」と訳していったのです。石川氏は、「北森先生の『神の痛み』のなかに、『共に』という発想はない」といいます。

【図示】
慈悲→痛み:北森
  →共苦:井上→悲愛

北森さんの「神の痛み」に「共に」がないのは、これはわたしの推測ですが、佐古さんと井上神父との比較で述べたこと、すなわち救済論の出発点が、佐古=罪、井上=苦ということと関連しているように思います。(つづく)

南無アッバの集い&平田講座(於・四谷ニコラバレ)
日時3/24(土)午後1時半~。4/28(土)同、5/26(土)同。6/23(土)同


―「余白の風」入会案内―
どなたでも参加できます。購読のみも可 
*年六回奇数月発行 
*年会費千円(送料共)
*採否主宰一任(本会の趣旨にそって添削する場合があります。) 
*締切=偶数月二十日 
*ご希望の方はメールしてください。
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