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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第228号 2017年9月発行  

以下はブログ版です。*紙媒体の実物は↖サイドバーをご参照ください。


俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ *選評
   
名古屋・片岡惇子
ヒロシマの叫びとどかぬ蝉時雨
長崎の平和願う鐘炎暑する
雷鳴や祈りの中に小さき者
夕立に洗われ透けるマリア像
被昇天のマリア涼しき風残し
蝸牛みんな悲しみ運んでる

*①②原爆の悲劇が忘れ去られているような国際関係が心配されます。③人間の無力とともに、アッバにゆだねる謙虚さをもつ「小さき者」⑥一人一人が自分の十字架を背負ってついてきなさい、と主はおっしゃる。

豊田・佐藤淡丘
裏山の奥よりはじむつくつくし
新涼や二の腕さすり語りあふ
鷺草の小さな決意みつけたり
睡蓮水の余白に映るもの
にいにいのこゑをつゝみてゆだちかな

わが裏山には「百段坂」(実際には九十六段)がある。毎朝これを、歩く、またぐ、昇って降りる。これらの動作は、よく考えれば全てが「片足立ち」が基本です。
よたよたしながら、その動作を意識することが、老化の防止、即ち「ウィズ・エイジング」だと自負しているところです。南無アッバ

*なるほど「アンチ――」ではなく「ウィズ・エイジング」なのですね。「片足立ち」――私もこの頃朝のウォーキングといくつかのエクササイズを決めて実行しています。お仲間入り、よろしく、南無アッバ。

大阪・島一木
群集の顔の数だけ咲く花火
通過する電車の窓も花火見る
花火見るとき鉄橋がいつも邪魔

*見ている花火がどのようなものであったかより、それを見ている一人ひとりの人生に想いを致します。悲喜こもごも、思い出のアルバムが作られる。

昭島・新堀邦司
国境に青き山脈聖五月
ロ短調ミサ曲を聴き聖五月
梅雨疎まし男にもあり更年期
父の日や父といふ字が小さく見ゆ
みどり児を抱く聖母や合歓の花

*③④ジェンダー問題が何となく女性中心に語られているような昨今、男性の更年期、イクメンのうつ病なども取り上げられつつあります。

高知・赤松久子
マグダレナ一人隠遁秋の山(聖人伝より)
ベランダに立てば吹く風秋の風
師のテープ胸熱くなり南無アッバ

 うらみ、ねたみなど、肯定はしない/しかし/自分でギーッと努力するのでなく/イエスの愛の前に立って/自分のきたなさをみとめて/お願いします――と/合掌するのです/と、神父さまはおっしゃった/南無アッバ

*井上神父さまのお話は、いつも現実に即していました。自分の罪深さを認めた上で、それを自力でなんとかするのでなく、重点が南無――お任せ、アッバにゆだねる、というところにかかっています。

八王子・F・井上
遠い日の感動が湧く槍穂高吉田画伯の気骨いまだに
庭の隅見知らぬ花が楚々とたつ天使が運ぶ慰めのたね
がたがたと早のキッチン動き出すアッバ、アッバとつぶやきながら
終活に逸る気持ちに釘をさす思い出という過去の化け物

*①「遠い日の感動」④「思い出という過去の化け物」過去は解釈によっていかようにも、今を生きる糧にもなり、また毒にもなります。

板橋・松風人
ウクレレや賛美の響き暑気とばす
みず求めつがい番と翔びする赤トンボ
我を呼ぶ炎暑に聳ゆ竜舌蘭
*松風人さん、ご入会ありがとうございます。本会「余白の風」は、詩歌の文学的な出来を第一に問うものではありません。「南無アッバ」の祈り心をごいっしょに養いましょう

蓮田・平田栄一
  今日の言葉               
自分で自分が納得できる物語が作れればいいんだと思う。
  *                     
「人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、再び出発点に戻ることによってのみ、何か新しいことを始める大きな力が与えられるのである。これを可能にするのはゆるしである。」(ハンナ・アーレント)
  *                     
「日本人は、少なくとも八月六日から十五日の十日間は、正気に返らなければならない。」(大岡昇平)

練馬・魚住るみ子
プネウマ聖霊とふおみ風さまにつつまれて安けくぞあるわれらなれこそ
暗門の滝に真向ひ水の風さんき山気の風を胸深く受く
一陣の吹き降す風白神の山々の上めぐりゆくなり
  『風の道』                
砂丘の上砂ずぶずぶとたどきなし奈落へ通ふと言ふにあらねど

*①宗教とは、受容の安らぎであると井上神父はおっしゃいました。②③その安らぎを最も身近に感じられるのが、自然への親近感でしょう。


平田講座要約(第四七回)2014-5続
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

ルカも教会の調和的傾向が強いので、『使徒行伝』など見ると、過激なパウロ主義を弱めようとする傾向があります。たとえば、エルサレム会議の調和的解決――一五・二〇=「使徒教令」の『レビ記』一七~一八章にもとづく四つの禁令は、『ガラテヤ書』二章では決議事項になっていません。貧しい人への配慮だけです(二・一〇)。「使徒教令」はアンチオキア事件(二・一一)以降に、ヘレニストとヘブライストの調和を望んで制定されたとするなど、ルカは彼のイスラエル――イエス――教会という直線的な救済史観にもとづいて、「使徒教令」を『使徒行伝』に入れることで、旧約イスラエルとキリスト教会の連続性を主張したかったのではないかと思われます。

またアレオパゴスの説教は失敗したかのような印象を与える(一七・三二~三三)のも、パウロ主義を弱める意図がうかがえます。
ただ、「無条件のゆるし」の福音は、イエスもパウロも一致していることは、特筆すべきことです。イエスに会ったことがないパウロがゆるしの福音の本質を見抜いたということになります。

同(四八回)2014-6
北森神学VS井上神学に関して、石川耕一郎さんと八二年一月に対談した井上神父が、直後(おそらく二月)に、サンドメルに出会って「目から鱗」状態になったという、その経緯を見てきました。

ポイントは、サンドメルの視座――新約聖書全般を「パウロの立場を中心課題として理解しようとするサンドメルの視座」――パウロ文書→新約の他文書という歴史的順番から、パウロ主義が、その賛否はともかく、すべての新約文書に大きな影響を与えていた、ということです。

<■痛む父と慈しむ父
p・53
こうして二つの神学を見た上で、比較のためあえて図式化してみると、次のようになるのではないでしょうか。
まず神学の出発点として、問題意識の持ち方が両者で異なっています。北森神学の問題意識は、わが罪の解決というところに重心が置かれているといってよいでしょう。それに対し井上神学ではまず、罪より苦しみの問題に関心が向けられています。この点では最初の佐古氏との比較と同様です。>

【板書】
<神学の出発点の比較>
北森、佐古:わが罪
井上:苦しみ
(復習p.26)

南無アッバの集い&平田講座(毎月)
於:四谷ニコラバレ、
日時9/23(土)13時半、
10/28(土)同、
11/25(土)同

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