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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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求道俳句誌「余白の風」第225号 2017年3月発行   

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。


会員作品とエッセイ *選評

高知・赤松久子
人気(ひとけ)無き被災地に咲く桜花
薫風や君歩まれし南無の道
春の川グライダーの如き鳥一羽
川に落ち光つづける蛍かな
菜種梅雨憂さかかえつつ南無アッバ

*①東日本大震災から六年、多くの人たちの労苦が続きます。「主のわざに励みなさい。主にあっては、労苦は無駄になることはないからです」(一コリ一五・五八)

八王子・F・井上
右近列福 四百年を経て平和
如月の恵み右近に集う杖
剣捨てて右近クルスと共に在り

*高山右近の生き様は、自分にとって本当に大切なものは何か、ということを常に考えるように、というメッセージのように思えます。

練馬・魚住るみ子
残生を幾年と数ふあらたまの朝(あした)の陽光(ひかり)満ちわたりたる
吹雪くとふ北国の空や南無アッバ日差しを背(せな)に浴みて歩めり
車内の人大方スマホをなぞりゐる隣席スマホに小人が踊る

*「今年卒寿の私などが来し方を省みて、戦後の社会の変化につれ、孫の世代あたりから、やり甲斐のある仕事を持ち、家事、育児を両立させる健気な生活を、素晴らしい思っています」(第三回Y’s Wonderful Women賞、本人メッセージより)。「残生」といわず、今後ともご活躍を期待いたします。

 名古屋・片岡惇子
優しさが溶す氷の温かき
春浅しゆるゆる下る道遠し
色紙には梅と墨濃くありがとう
祈りかな花芽立つ枝天を指し
存在や足の先まで日向ぼこ
祈りつつ天に向かひつ春うらら

*⑤日向ぼっこをして、足の先まで温まったとき、ふと「存在」ということが意識された、というのです。生きてやがて死ぬということの不思議、有難さ。

豊田・佐藤淡丘
二月尽小鳥が地面を早走る
堰音や稚魚が群れをり水温む
魚跳ねて時の移りし春を待つ
懇ろに踏めば応へる残る雪
雲雀野はト調短調輝けり

「あゝ俳句ができない」。そんなとき、近くを流れる二級河川を北に向って歩くことにしています。〝なでしこジャパン〟の前監督、佐々木則夫さんの好きな禅の言葉、それは、「歩歩是道場」。正に是、俳句道場に使えると、このごろ思うようになりました。一歩前進、二歩後退(?)。続けようと思っています。南無アッバ、南無アッバ

*「歩歩是道場」いい言葉ですね。私も毎日が「求道」「学び舎」と思って過ごしています。なんでも自分を統べる言葉を見つけると、焦りから解放されるような気がします。

大阪・島一木
守りたまへ秋の別れの聖少女
教会の隅の無花果実のなるか
ミサ終はり晴れわたる空小鳥来よ
綿虫や両手ひろげるイエス像
足もとに枯れ葉のつもるマリア像

*④イエスは十字架の苦しみのなかで、両手を広げておられる。意味深長です。十字架はキリスト教の中心とかシンボルなどと言われますが、十字架をどう捉えるかがキリスト教の真髄なのではないか、と最近思っています。

昭島・新堀邦司
ニコライの鐘のすがしき波郷の忌
ゲゲゲ忌は妖怪晴れに冬ぬくし
背伸びして待降節の燭点す
「豪快」といふ酒を酌み忘年会
身につきし独り暮しや年用意

*⑤先日、井上神父の第三回命日祭がありましたが、参加された方が口々に、帰天三年が経っても、ますます神父が身近におられるように思う、と感想を述べていました。天の国の奥様との対話をお続けください。

蓮田・平田栄一
春の日をあまねく入れしガラス窓 

ヨハ一四。イエスは「ガラス窓」のような方。そういう透明な方だからこそ、アッバの暖かなまなざしをそのままわたしたちに注いでくださる。しかし完全に、アッバの息吹を注ぐためには、イエスというガラスはこわれなければ――十字架上に死ななければならなかった。


平田講座要約(第四六回)2014-3
(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)

井上洋治神父の三月十七日の通夜、十八日の告別式においでくださった方、ほんとうにありがとうございました。
今日は、第四十六回目の講座になりますが、こういう時でもありますので、講座内容に先立って、皆さんの井上神父との思い出や、エピソード、あるいはお会いしたことがない方でも、本やお聞きになったお話の感想など、自由に語り合い、分かち合いたいと思います。

講座内容の方は、お時間あれば、やっていきたいと思いますので、ご了承ください。
最初に、私のとりとめのない話からさせていただきます。
井上神父訃報のことですが、私が受けた一報は、三月九日(日)第一ミサ中、朝八時三〇分ころ携帯が震えて、折り返しかけた山根さんから受けた電話。発信が山根さんで、こんな早くかかってきたので、電話で話す前に、いよいよ来たんだな、と思いましたから、驚きはしなかった。

そのとき葬儀の日程は決まってなくて、でも「これからは、井上神父が天国から私たちを見守ってくれるんだね」という、妙な安心感を持ったのを覚えています。

虫の知らせというのではないでしょうが、ここ二ヶ月くらい、たぶん、三・一一から三年という感覚も手伝っていたと思うのですが、個人的にもいろいろ目まぐるしい出来事が重なっていまして、思いついたのが、『死ぬ瞬間』で有名なキューブラー・ロス博士の『死後の真実』という講演集でした。遠藤さんは死の直前、この本を読んで「死ぬのが怖くなくなった」と言っています。これを再読したくなった。実は、ちょっとオカルトっぽいところも多々あるのですが、心休まる内容です。
それを再読しだして四、五日経ち、訃報が入ったのです。

お通夜の前日、このまえの日曜日ですが、白梅が咲き誇っていました。午前中は川越のミサに出て、午後は神父様のお顔を見に大司教館に行き、半日ゆっくりごいっしょしました。
安らかなお顔を拝見し、不思議と私には悲しみや寂しさの感じは薄く、生前以上に神父様を身近に感じるような安心感、遠くから見守っていてくださるというより、もっと近く、すぐそばにいつでもいてくださるんだ、という安堵感に、ずっと包まれていました。
先ほどのロスの本の影響もあるかもしれません。

生前ごいっしょに話している時、「私にはアッバがこう言っているように思えるのだよ」という言い方をよくしていたことを思い出します。それは何か難しい問題があって、お祈りした後の結論のようにおっしゃっていました。
そしてその結論は、たいてい、ご自身の反省の弁、ご自身が「控える」べき事を言う時に使われていました。「アッバがここではおまえが謝りなさいと言っているように思えるんだよ。」そんな言い方です。

そういうことを聞くときは、確信に満ちた偉い神父様というよりは、本当に一求道者として、アッバの示された道を、たどたどしくも、素直に、幼子のようによちよち歩いて行かれる姿を彷彿とさせました。
一九八〇年の暮れにお会いして以来三十三年間、私にはまったく気取ったところがなく、自然に接してくださいました。もちろんいつもはやさしかったですが、お怒りになることもありました。

それはたいてい、二人でお酒を飲んで、日本のキリスト教の問題というような話になったとき、生意気な私に対して発せられた叱責でした。
それで私が納得いかず、ぷんぷんして家へ帰ると、よく「今神父様から電話があったわよ」と妻が言う。中身はさっき怒ってしまったことに、私にじゃなくて、うちの奥さんに謝ってるんですね(笑)。そういうところがある方でした。
また、神父様のマンションでいっしょに飲んでいて、調子がでてくると、いきなり「南無アッバ!」と気合を入れて、次の一本を奥から持ってくる、なんてこともありました。

ともかく、神父様との多くの思い出と記憶は、たいていお酒と結びついています。今は飲むとすぐなんでも忘れてしまいますが、神父様と飲んだ時の話は、不思議と内容をよく覚えています。(つづく)


おしらせ:南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時3/25(土)13時半、4/22(土)同、5/27(土)同


―――――「余白の風」入会案内―――――
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