「南無アッバ」を生きる ホーム » 求道詩歌誌「余白の風」 »求道俳句誌「余白の風」第223号 2016年11月発行

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第223号 2016年11月発行  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(*選評)

大阪・島一木
教会は闇なり花火揚がる音
教会の塔に渦巻く星月夜
霊名はアウグスティヌス神父祝ふ
聖変化 台風の眼が通過する
十字架を胸に笑顔は爽やかに

*④⑤救いは必ずしも、直接的な幸福のなかにあるわけではない。私たちは今救われたい、この現状をなんとかしてもらいたい、と思うのだが、アッバの御考えは測り知れない。

昭島・新堀邦司
神木の香椎や今も青葉して
夏空や旅に出しまま寅次郎
遺されし絵に黙祷す敗戦日
みほとけは涼しくおはす浮御堂
別れ星遠くへ行つてしまひけり

*②米田彰男著『寅さんとイエス』という本が話題になっていますが、井上神父もすでに七九年、山田洋次氏との対談で、寅さんの魅力を語りながら、「あの笑いの陰にある哀しみにぼくはひかれた」(『ざっくばらん神父と13人』主婦の友社)と述べています。

高知・赤松久子
腰痛と知恵くらべかな冬の日々
南無アッバ念じ居るらしかまど猫
み手の上やんちゃに生きて南無アッバ
トマスにも恵みあふるるイースター

*②③「猫」に教えられる南無アッバ。神の国は「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ二〇・一六)どころか、人間が後になり、動物が先になるかも。

八王子・F井上
南無アッバ人口膝の散歩道
もの忘れ多々ゆるされよ南無アッバ
好き嫌いすべてゆだねる南無アッバ
生きるとは老いとは烏瓜まぶし
秋草の小道故人の笑みに会う

*①②あちこちが不自由になる④老いの中で、生きるとは何か考えざるをえない。各自が生の意味を考えなさい、という宿題を解くべく老いが与えられているのかもしれない。③作者が見出した答えとも。

余生  練馬・魚住るみ子
風立ちて名知らぬま円ろ葉そよぎ居り更けゆく秋のあし音としも
南無アッバ手ざはり骨ほね痩身の卒寿の我やともあれ健やか
読み聞かせむ絵本探しぬ南無アッバ曾孫の顔を思ひ浮かべつつ
『風の道』
少年の涼しき瞳吊革へ手をのべゐたり席を譲りて

*①②一年の秋、人生の秋。③④何歳になっても、その歳はだれもが初めて生きる歳。作者は短歌のなかに、その新鮮さと人のやさしさを見出している。

愛と光の家での黙想会  名古屋・片岡惇子
台風に向ひ旅発つ縁の糸
沈黙こそ主との語らひ台風過ぐ
秋冷や雨滴の打ちし黙の時
黙想会頬に秋蚊の目覚めよと
コスモスの一色になり御堂飾る
秋冷や今ある時の息を吸ふ

*①「縁」、時にアッバのはからいとしか思えない瞬間がある。②③④現代人に決定的に不足しているのが「沈黙」かと。饒舌すぎるネット、スマホかな。

豊田・佐藤淡丘
喜びの言葉は要らぬ落葉中
しろがね白銀の尾花ちぎりて土手下る
小鳥来る神の一葉落しけり
芋名月水に映りて揺らぎをり
鵙高音一瞬にして夜が明ける

今から十二年前、ひょんなことで「マザー・テレサ日々のことば」という本をもらいました。この中から「つつましい仕事から離れてはいけません」と教えられ、小学校の放課後の学童保育に、紙芝居を月に一度ですが、やらせてもらっています。マザーが今も見ているようでやめられません。南無アッバ

*あのマザーテレサにも大いなる信仰の危機がありました。「過去十一年をとおして初めて、わたしは暗闇を愛するようになりました。今わたしは闇が、イエスの地上における闇と痛みの非常に小さな部分であることを信じるからです。」(『来て、私の光になりなさい!』)

東京・中庭 栞
ほし草や眩しき限り陽のたぎる
炎天の丘に潮騒ぬける道
南仏に国境のなきせみしぐれ

*③まったくです。人為的な区別、差別であらゆることに色分け――分別をつけているのは人間だけ。

日立・武田孝一
最早死を口にせずなりし生徒一人帰寮せしめて長き夜の祈り
みどり児を主に捧げ来て浅夏の夜更けに妻と感謝の祈りす
煙突なきアパートの聖夜寝入りたる吾子のため赤き靴下吊るしやる
亡き子ある日籬より入り来る幻覚に生き来しという老婆の戦後
妻の弾く復活節賛歌に響合いてヒアシンスの花穂静かに揺るる

*初めてのご投稿ありがとうございます。どの歌にも信仰の姿勢、ご性格がにじみ出ています。「風の家」の活動にもご理解くださり、感謝です。

蓮田・平田栄一
弱さこそ神の強さや夏の川
どこまでもゆるす神なり五月尽

平田講座要約(第四三~四四回)2013-12/2014-01

(テキスト『心の琴線に触れるイエス』聖母文庫)
(前号からの続き)この点――十字架において、神の本質から「痛み」を切り離し、イエスに限定しているという点――は「神中心主義」のパウロに近い――神が主、イエスが従――といえるかと思います。

第二は、井上神学のスタートが人間の罪一般(北森)ではなくて、歴史的具体的な「弟子の裏切り(の罪)」だということも、見逃せません。ここは「自分がイエスを傷つけたという実感がない」(『パウロを語る』)という発言と結びつきます。
この「父なる神」と「イエス」をどのようにくっつけ、切り離すかは、イエスの神性人性をどう捉えるか、という重要な、また多様な問題を含んでいます。キリスト教の歴史そのものといってもいいかもしれません。

アタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした三二五年のニケーア公会議、ネストリウス派を異端とした四三一年のエフェソス公会議、単性説を異端とした四五一年のカルケドン公会議など、さまざまな論争が行われますが、結局、これは人間の歴史から見れば、わたしたちの正直な欲求が、キリストこそ神と人の橋渡し役(仲介者)となってもらいたい、ということの現れであり、そうであるなら、どうしても両性が同時に必要だったという証とも言えましょう。

〇第四四回
テキストより、p・52
<‥‥だから私には、十字架のイエスを本当に包み込んでいる更に大きな、何か手みたいなものを感じさせる‥‥。
‥‥確かに、十字架の血というのは、自分を裏切ってゆく人間を、やっぱり包み込むところに、流れるものなんだろうというふうな‥‥。そういうことはね、『愛を見つける』あたりでは、私も何となく感じたのです。だけど更にそれを、なんかね、こう、あの仏像に見られるような柔らかさというか、なんかこう最後に包んでないとね、ちょっとこう苦しくなっちゃうというか‥‥。>

井上神父は、裏切りをゆるす(包む)所に流れる十字架の血をイエスに限定しています。父なる神はその「痛むイエス」をさらに包んでいます。痛むイエスの十字架を同心円的に広げていくと、だんだん父なる神の方ではやさしさに包まれていく――癒やされていく、というイメージでしょうか。


南無アッバの集い&平田講座(毎月)=於:四谷ニコラバレ、日時11/26(土)13時半、12/24(土)同、1/28(土)同

平田栄一・新刊『「南無アッバ」への道』定価800円+税。聖母文庫☎095・824・2080。サイン本ご希望の方は平田までご連絡ください。〒込千円

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。見本サイドバー参照 購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*申し込み・お問合せ 余白メール

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/2746-31723f91
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop