「南無アッバ」を生きる ホーム » 求道詩歌誌「余白の風」 »第217号:2015年11月発行:求道俳句をつくりましょう!

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

第217号:2015年11月発行:求道俳句をつくりましょう!  

俳句や短歌をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

練馬・魚住るみ子
南無アッバ想ひ出話に花咲かす端居に仰ぐ良夜かな
かぐや姫の宮居はいづこ南無アッバ望月のおも面は変らぬものを
  『風の道』
咲き満てる枝垂れの花のうすべにの滝幾筋と流るる大樹

*①健康情報学の中山健夫は、東日本大震災に関連して、「『過ぎたことは忘れよ、前を見て生きよ』的な他者の『励まし』による過去の記憶の消去、未来志向の強要は、・・・混迷にある人々の生きる力の回復を妨げたことはなかっただろうか。」(『死生学入門』放送大学、七三頁)と述べている。「想ひ出話」は、生きていくために貴重な栄養なのだと思う。

豊田・佐藤淡丘
万物を逆さに映す秋の水
水源を訪ねその日も花野かな

国木田独歩の「武蔵野」を本棚からひょっと出し、次の文章をみつけました。
「一路人影なし、独り歩み、黙思口吟、足にまかせて近郊をめぐる」と。なるほど、こちらは三河路だが、独歩の言う武蔵野に似ているところもある。里山は楢林が低い森を連ね、その窪みを遠く北の山塊を水源として、疎水が流れている。又、独歩曰く、「一つの小径を往き、たちまち三条に分かるるところに出たなら困るに及ばない、君の杖を立ててその倒れた方に往きたまえ。」と、このぶらり歩きがいかにも独歩らしい。晩秋の一日、少し真似ることにしました。

 山は暮れ野は黄昏の薄かな(文中)まま
独歩のような甘さと「感興」こそ味わうことができませんでしたが、なんとなく満足のゆく一日でした。南無アッバ

*「君の杖を立ててその倒れた方に往きたまえ」の一節は、わたしも好きな一節です。正宗白鳥は「武蔵野」を読んで、これなら自分も書けると思って、小説を書き出したとか。①自然を見たままに写生する。巧まない巧みさが真骨頂かと。

一宮・西川珪子
明日より今日のひかりの秋桜
台風の去りし青空神のもの
魂の帰り来るみち彼岸花
部屋に来しちちろの声を送り出す

*全句、時間の流れの中でつかむ希望に満ちる。①「明日より今日」、②「台風」と後の「青空」、③「魂」の帰途、そして④「ちちろ」を見送る。

高知・赤松久子
多摩川を渡るそよ風南無アッバ
バチカンにオラショが響く南無アッバ
秋色に胸染まりけり南無アッバ
秋の雲空いっぱいに南無アッバ

*「~~南無アッバ」の井上神父が遺した「アッバ讃句」形式は、今や求道俳句の基本として定着しました。どうぞ、初心の方も作ってみてください。きっと心休まりますよ。

名古屋・片岡惇子
芒野をしみじみ染める夕日かな
腹からの怒り圧さえる虫時雨
満月や遺影の母の笑みもまた
十月や頑固な心説き聞かされ
ロザリオの繰る手の皺や秋日和
柿熟す去るもの去りて南無アッバ

*井上神父が生前「人生は哀しいものだ」と言っていたのを思い出す。歳をとる度にその意味がわかってくるように思う。それは、悲しみの中にも「しみじみ」とした味わいがあるような――福音的な哀しみであるように思う。

『都市群像』・島一木
聖母にと赤い薔薇切る大輪を
聖水やほのかに薔薇の匂ふなり
*「薔薇」と「聖母」は切っても切れない間柄。そうするとイエス様の象徴はブドウの木か、アネモネでしょうか。

「日矢」六〇八~一〇号・新堀邦司
睡蓮の目覚むる頃か雨上がる
天心に昇りて開く花火かな
供へたる季節の花や吾亦紅
*③「妻に」と詞書あり。新堀氏にとって亡き奥様は、過去の人ではない。これからも巡る「季節」を共に生きている。

「こみち」二六六号・小熊坂満邦
無人駅出て万緑の中に居り
隣席の赤子大泣き梅雨に入る
*二句結び付け、中村草田男の「万緑の中や吾子の歯生え初むる」を連想しました。明るい未来が望めます。

新約聖書一章一句・蓮田・平田栄一
もう何も言わずにおこう冬の月――マタ1・18~24
新約を「共に」で結ぶ文化の日――黙22・21
http://yohaku5.blog6.fc2.com/blog-entry-2616.html


平田講座要約(第37~38回)
テキスト『心の琴線に触れるイエス』


p・50
「神の痛み」とは、神の愛にそむいた罪人である人間にそそがれる神の愛の現実である、といいます。それは「包むべからざる者を包み」込もうとするがゆえに、傷つき痛む愛です。その神の痛みが、人間のあらゆる痛みを包み、解決する。これが、十字架の救いの内的構造であり、直接的な神の愛にそむいた罪人も、神の痛みに基礎づけられた愛のなかでは、従順な者として征服される‥‥。こうした考えに立つ北森神学は、西欧の神学に対する戦後日本のオリジナルな神学として、教会内部に大きな影響力をもってきたといえるでしょう。


人間=罪人→十字架→解決
       ↓
  包み込む痛み:イエス=神の愛

こういう神学を、一般の日本人はどう感じるでしょうか? 痛々しさと同時に、「おまえは悪者だ!」といわれているようで――実際みな罪人ではあるのですが、萎縮してしまうのではないでしょうか。(昔、井上神父に私が、「申し訳ない」という罪意識では、萎縮してしまうのではないか、という質問をしたことがありました。そのとき神父は、頭を下げて萎える人間は、信頼が足りないのだ、といった趣旨のことをお答えになりました。)

青野先生や井上神学は、なぜそうならないか? と考えますと、もちろん根底に、アッバへの信頼ということがあるのですが、それと、北森神学にはない「共苦」という発想があるからではないでしょうか。この「共に」という視点がないと、罪人の私が単独者として法廷に立たされ、糾弾されている、という恐怖・不安を持つのだと思います。青野神学では、罪人のまま、不信仰のまま受け入れる神、すなわち井上神父のいう「アッバ」が強調されています。

<第38回>


この北森神学と井上神学については、「日本カトリシズムの原点と成熟」と題して、一九八二年一月に行われた國學院大學日本文化研究所主催のシンポジウムで興味深い意見が交換されているので、それを参考に述べてみたいと思います(戸田義雄編『日本カトリシズムと文学』Ⅳ 大明堂)。


前回、井上神父が重視する「キリストの体」論と「初穂」理論との関連を見、比較として北森神学と比べ出しました。
戸田先生(1918-2006年)は国学院大学の先生ですが、このご本では「井上山脈」と称して、遠藤周作や高橋たか子を始め、多くのカトリック作家が井上神学の影響を受けていることを指摘しています。井上神父は、この戸田先生が真正面からアッバ神学を取り上げてくださったことに、大変感謝していました。

パネリストの一人、石川耕一郎氏(昭和大学教授・旧約聖書学)は、日本人へのキリスト教伝道の問題意識、苦心という点では、井上神学と北森神学が共通性を持っているといいます。しかし、その似ている二者のキーワード「悲愛」と「神の痛み」とを比べてみると、むしろ違いの方が際だって感じられる、というのです(後述)。

このシンポジウムで出会った石川先生から、一ヶ月後に井上神父は『天才パウロ』という、サムエル・サンドメルという人の本のコピーをもらうわけです。この本は邦訳がありませんから、石川先生は全部コピーしてくれたのですね。それだけ、井上神父にぜひ読んでもらいたいと思われたのかもしれません。相当な量です。私は原書の復刻版をインターネットで取り寄せましたが、大判二四〇頁の本です。

南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、日時11/28(土)13時半、12/26(土)同

―――――「余白の風」入会案内―――――
どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*申込先 サイドバー余白メールより

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/2619-5609c2a6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop