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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第216号 2015年9月 発行   

俳句や短歌、短詩をつくりながら、「南無アッバ」の心を養います。

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

F・井上(八王子)
〇躓きの石がごろごろ南無アッバ
 美しく咲いても人の好き嫌い
 先例に習う疑問符つけながら

*①弱い私たちの日常には、まさにさまざまな「躓き」がある。躓きは今は不幸かもしれないが、後で振り返ると、あの時の躓きがあったからこそ、今の幸いがある、ということもよく経験する所ではないか。

  遺影   魚住るみ子(練馬)
 南無アッバ喘ぐ呼吸の終りては安けくあらむおとうとよ今は
 父母と先立ちし妻の待つ彼岸柩のそひ傍に花あふれしむ
〇南無アッバ微笑む遺影 この表情でエイプリルフールかつがれしことも
 明けの星ほのかに消えゆくたまゆらよ南無アッバなむ胸に手を当つ
 庭の面に日差し明るし南無アッバひと日の始まり朝餉をかこむ

*③ご令弟は、ユーモアのある方だったのでしょう。①終末期の試練を越えた先には、永遠の安らぎと②先立った、愛しい方々とのうれしい再会が待っている。

佐藤淡丘(豊田)
〇かなかなやかわたれどきのかなたより
 池畔かなかわたれどきの夏帽子
 この山の頂までも法師蝉

 かわたれどき(彼は誰れ時)とは、夜明けごろのうす暗いとき、と辞書にある。私の好きな言葉であり、時季でもある。
 池の水は星の片割れを落し鎮もり、森の奥からは蜩の声が連れだって聞こえてくる遠く行き交う人の顔も分からぬまま過ぎ去るのもよい。まさに秋近しである。

*「かわたれどき(朝早くまだ暗いうちに)、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、祈っておられた。」(マルコ一・三五)。イエスさまの復活も「かわたれどき」だったかもしれない。こういう言葉が日本語訳聖書に使われ残っていったらすばらしいですね。

西川珪子(一宮)
 どう生きる朝顔の蔓伸びてゐし
 万物の光りて白き立夏かな
〇夫ありて吾れあり白き百合供ふ
 夏の昼睡魔活字の中に入る

*①朝顔の蔓は手探りで、あちこちを彷徨う。しかしともかくも上に伸びて行こうという、意志だけははっきりしている。その潔さ。③今は亡きご主人との対話は続く。

赤松久子(高知)
〇死者の月なつかしき人夢に立つ
 亡き夫の杖を縮めて吾が名彫る
 師の〝讃句〟壁に飾りて南無アッバ

*生きている者が死者とどう向き合うか、付き合うか?は、現世での生き方に決定的な違いをもたらす。人の死、イエスの死、それを反芻するとき、生き方が変わる。

片岡惇子(名古屋)
 百日紅優しき風の通り行く
 喪の家の白の焦げたる夾竹桃
 雲の峰我が意志置ひて崩れゆく
◎生きるとは生きていること蕎麦を打つ
 無花果のじわじわ熟し平和壊る
 八月のペダルを漕いで引き返へせず

*④人は苦しい時、生きる意味を問う。何のために生きているのか? こんなに苦しんで生きていることに何の意味があるのか、と。作者は言う、「生きる」とは「生きていること」=現在進行形の、現に今生きていることに他ならない、と。「生きる」とは「今」以外のことではないと。生きる意味を問うのは、現に今生きている限りのことなのだ。意味を問うことの相対化。今黙々と目前の「蕎麦を打つ」。

平田栄一(蓮田)
 万民に救いの希望秋彼岸(ヘブル一〇・二二)
 信仰は希望と愛の糧なりや(同一一・一)

寄贈誌より

「日矢」六〇五~七号・新堀邦司
妻に捧ぐ赤き花束復活祭
母のゐてこそ母の日なるものを
妻逝きてはや六月も過ぎにけり
父の日のグラスに受けし白ワイン

*奥様に先立たれ、さぞお寂しいことと察して余りあります。しかし、お子様方に慕われて生き生きと活動されていることが御作からよく伝わってきます。

『風の道』・魚住るみ子
まろまろと母の傍へに群るる雛一人前にパン屑ついばむ
親と仔の見分けつかねど母鴨は寄り来る鴉を目聡く威嚇す

「祭演」五一号・森須蘭
花冷えや猫の瞳に濁りなし
人生の意味も引き摺り花筏

「花組」六五号・あざ蓉子
髪を揺らせば秋風となりにけり
古里の紅葉山から日が射して

「こみち」二六五号・山口佐喜子
前向きに生きしこの道すみれ草
聖日や子の来る午後のさくら餅

平田講座要約(第37回続)
2013・6・22 テキスト『心の琴線に触れるイエス』


p・48
「それに(初穂理論は、)『償い理論』や『贖い理論』に比べて、キリスト教信仰の核心である復活を基盤としているという意味でも、たんに現代の私たちに理解しやすいというだけではなくて、救いの本質をより的確に表現していると思うのである。」


この言葉からは、「初穂理論」が「償い理論」や「贖い理論」に比べて、よりよく救いの本質を表しているという見解とともに、端的に「復活」が「キリスト教信仰の核心」であり、「救いの本質である」という主張をも読みとることができます。そして、「償い理論」や「贖い理論」が十字架に集約される救いの表現であることを考え合わせるなら、やはり「十字架より復活」が井上神学の救済論の中心にあるということができるのです。
図示しますと、

旧約→償い・贖い→十字架<復活←初穂←新約
          ↓
旧約的伝統信仰:イエスの死

 こんなイメージになるかと思うのですが、青野太潮神学から見ると、「十字架」の所は「イエスの死」に置き換え、「十字架」はむしろ、右項「復活」の方に入れるべきかもしれません。というのは、「復活」信仰体験が契機となって、十字架の逆説的意味=絶叫・絶望して死んだイエスへの神の「しかり」を理解したと考えられるからです。
 ただし、井上神父は、遠藤周作さんと同様(E・シュタウアーの説)、かの「絶叫」は詩編二二から神への賛美と取るかどうかは、微妙です。


p・49
■北森神学との対比
こうした井上神学の特徴をより明確にするために少しく、戦後日本のプロテスタント教会を中心に話題になった、北森嘉蔵氏の「神の痛みの神学」(同名書、新教出版社、一九四六年)について見ておきたいと思います。

「私は、イエス・キリストの十字架を『神の痛み』として受けとってきた。それは、赦すべからざる者を赦し、包むべからざる者を包み、『外』を『内』に入れるときの、神の愛の本質的性格をさし示そうとする言葉であった。いわゆる『痛みの神学』である。」(北森嘉蔵著『聖書の読み方』講談社現代新書 一七八頁)


最近、『神の痛みの神学』復刻版がでていますね。

 引用した「現代新書」の言い方だと、キリストの「十字架の死」ではなく、ただ「十字架」といっています。ここだけ見れば、青野神学のように、「死」と「十字架」を分けて考えている節もあります。ちなみにルターはこれをきっちり分けて、パウロの「十字架の神学」を理解していました。

この講座のだいぶ先で改めて取り上げるつもりなのですが(第五〇回辺りか)、「神の痛みの神学」の発想というのは、実は戦前、一九三〇年代までさかのぼる、ということを岩村信二牧師との対談で北森氏が述べている、ということを野呂芳男氏が指摘しています。(続)

南無アッバの集い&平田講座、於:四谷ニコラバレ、日時9/26(土)13時半、10/31(土)同

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