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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第213号 2015年3月 発行  

俳句・短歌をつくりながら、日本のキリスト教を模索します

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

佐藤淡丘(豊田)
マリア像色白くして雪止みぬ
大扉開けて教会春を待つ
「りょうしょう料峭」とある師の文大切に
大池のまなか真中膨らみ水温む

今年の暮に、満八十歳になる(予定です)。
そんなこんなで、俳句を少し嗜むひとりとして、辞世の句を・・・・と思い、次のような、一句を作ってみました。

明け易しこの世の息を地に返す  淡丘

いつも、この欄で書きましたように、早朝「会神の丘」での南無アッバの祈り、と続く太極拳。即ち、かかと踵から息を吸って全身に行きわたらせ、その息をゆっくり地に返す。こんな所作から思い出して作ったものです。どうぞお笑いください。南無アッバ

*③「りょうしょう料峭」は、春風が寒く感じること。⑤ご辞世の句、いいですね!「明け易い」白い朝と白い「息」。そこに唱える「南無アッバ」を包む「余白の風」=キリストが吹き抜ける。まさに「風の家」の名句です。

赤松久子(高知)
カルメルを仰ぎつつ咲く野辺の花
ガラス越し猫と目の合ふ春の宵
○ロザリオでアッバの祈り四旬節
幼き日仔猫のために祈られし君はまことの司祭とぞ思ふ

神父さまが生まれて初めて真剣に祈られたのが、(ご自分のためにではなく)捨てられた仔猫のためだったというお話(『余白の旅』一七頁)を読んで、「この方は本当に、司祭になるためにこの世においでになった方なのだ」と痛感したことでした。

*頂いていた原稿から選句しました。③これは私もやってみました。アヴェ・マリアの替わりに「アッバ、アッバ、南無アッバ・・・・」とやってみたり、交互に唱えたり。こうした身近な工夫が、日本人の新しい祈り方を生んでいく。

長谷川末子(秦野)
初場所の満員御礼十五日
孫達の食み笑い合う二日かな
冬草の神を見あげる強さかな
かるた取団地仲間は八十路すぎ
月脚伸ぶ亡夫の口元やわらいで

*ひさしぶりの御出句うれしいです。ご主人が亡くなられた後、お孫さんに囲まれてお正月を過ごす姿が、髣髴とします。③この「冬草」の希望を持つ「強さ」に見習いたいもの。④団地の高齢化・過疎化が言われ出しています。しかし、「かるた取」の腕前は健在!

井上文子(八王子)
麻酔さめ痛みの在りか主が居られ
まだ必要ですか足の補正する
ベッドまで花束が来るEメール

 一ヶ月ほど入院生活です。リハビリ大変ですが、三食つき自分の時間あり、神さまからのプレゼントです。

*つらい入院生活も、考え方次第で充実できる。 何事もアッバの「プレゼント」と受け止められること=「南無アッバ」の祈りの完成と言えましょう! どうぞ、お大事に。

片岡惇子(名古屋)
葉牡丹の渦が本音を吐いてをり
落ちるとき影浮彫りに白椿
氷張る束の間の刻意地通す
沈丁花月こうこうと闇隠す
◎不条理は神に委ねて早咲梅

*ときに鬱屈した気分が②「浮彫り」になり、①「本音を吐いて」みたくなることもある。素直になれず、③「意地を通す」ことも、また心の「闇を隠す」こともありましょう。しかし春を予感する⑤「早咲梅」に励まされ、小さな賢しらを捨てて、すべてを「神に委ねる」こと=南無アッバ!この一連に学ばせて頂きました。

平田栄一(蓮田)
主と共に生きて死ぬ日や寒の雨
背教の在り処や如何に懐手
片言に読める福音息白し

寄贈誌より

 「日矢」六〇〇~〇一号・新堀邦司
色も味も古稀の妻の煮大根
地に平和願ひ聖樹を灯しけり
  妻急逝                      
◎夜もすがら泣く吾が声ぞ虎落笛

*③十二月十日、奥様が天に召された由。「見えるものは過ぎ去るが、見えないものは永遠に存続する」(Ⅱコリント四・一八)との牧師の説教があったという。誌上ながら、心より南無アッバのお祈りをささげます。

「花組」六四号・林よしこ
春キャベツ静脈しずかに伸びてゆく
吊橋を渡ればだれも戻らぬ秋
手のひらに隕石受けて枯野ゆく

平田講座要約(第35~36回)
テキスト『心の琴線に触れるイエス』

<第三五回>続
p・45
さらに、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ三・一三)という言葉に端的に表現されている、いわゆるキリストの「身代わり理論」については、「律法の呪いとか支配とかいうことも、そのままでは到底私たちには実感としてとらえられず、この考え方も何か一つ力不足の感をまぬがれない」といいます。

ガラテヤ三・一三について――青野神学を参考に――この節bは、申命記二一・二三「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」と同二七・二六「この律法の言葉を守り行わない者は(神に)呪われる」との混交引用です。ただし、パウロは「神によって」を「律法によって」に、あえて変更している意味が大事な点です。つまり、十字架のイエスは神に呪われたのではなく、律法主義に「殺害」された、という思いがパウロにあったのではないか、ということになります。

「ただこの表現を、自我の肥大による自我呪縛のむなしさ、というふうに解釈するならば、次の『初穂理論』とあわせて、現代の私たちにも近づきやすい救済論への手がかりとはなるように思う」とも述べています。

「律法の呪い」を「自我肥大・呪縛」と置き換えて現代的に理解するということ、これも一種の非神話化といえましょう。これは、律法主義、行為義認、自力救済論=自分の力でなんとかなる、という意味でのエゴイズムの拡大への危険ということにつながると思います。

拙著『すべてはアッバの御手に』p・37~38では、「罪」とは「エゴイズム」に集約される、という井上神学の特徴について述べました。これは、パウロが「罪」をいう時、単数形・複数形で使い分けていることと符号します。つまり、パウロはユダヤ教の律法違反をいうときは複数形→贖罪論につながり、単数形のときは「根源的な罪」を述べているのです。このことは、青野神学とも一致します(『「十字架の神学」の成立』ほか)。

参考までに、井上神父は『キリストを運んだ男』p・36でも「パウロによれば、本当の意味における罪とは唯一つしかない。それは神の前に己の義を立てることに他ならない。」と述べています。これは諸々の「罪」に対して大文字のSin、「原罪」という考え方につながる罪だといえましょう。


『井上洋治神父追悼写歌集』をつくりました!

井上神父存命中、西早稲田の自宅で行われた、
洗礼式のミサをコマ送り的に撮影した貴重な写真を中心とする二十一枚と、栄一が神父を回想、追悼する短歌二十首を収録しています。全20ページ。価格:1冊500円(税・送料込)
ご希望の方は、著者サインの有無を含め、平田までご連絡ください。


毎月の南無アッバの集い&平田講座

於:四谷ニコラバレ 3/28(土)、4/25(土)
―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。購読のみも可。*年六回奇数月発行*年会費千円(送料共)*採否主宰一任*締切=偶数月二十日*問合せ 平田栄一

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