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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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求道俳句誌「余白の風」第211号 2014年11月 発行   

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

魚住るみ子(練馬)
ママチャリの前と後に児を積みたる急くな転ぶな事故以ての外 南無アッバ
ゆづられて礼なし坐る眼前に大き腕時計南無アッバなむ
○持ち時間とふ身にしみぬ南無アッバ賜はれる日々蒼天高シ

*②礼を言いそびれた一瞬。自らの時間に気づく。③各人が「持ち時間」を意識したとき、それまで意識しなかった世界が見えてくることを思わせる作品。希望はなくならない。

片岡惇子(名古屋)
満月や我が生き様のかけら落つ
初生りの無花果眩し神のわざ
秋暑し捨てきれぬもの目に重し
寂しさ聴き淋しくなりし秋桜
○存在を示せぬままに韮の花
葡萄とる手と遊び居る白い風

*東北の被災地へ、長崎へまことアクティブに活動されている由、頭が下がります。①半生を振り返るとき、そこかしこに見る足跡。②すぐ目の前に見る「神のわざ」こそ千金の価値。⑤究極の救いは、イエスの示したケノーシス(自己無化)かと。

佐藤淡丘(豊田)
曼珠沙華一筋群れて叫びをり
善良な面(かお)もて落つる木の実かな
一日を一生とせしちちろ虫
◎人体の大方は水 古酒に酔ふ
裏山はいつも斜めに法師蝉

 イエスさまは、人を救うために数々の奇跡を行われましたが、ご自分を救うためには、敵の前に、これに手向かおうとする者に、小指一本さえ挙げられませんでした。
 これこそ不思議な〝無私の心〟と言えましょう。今日も「会神の丘」に登り、無者キリストの深いお恵みに感謝し、ひれ伏し、〝南無アッバ〟と三回唱え、満腔のうちに丘を下りました。南無アッバ。

*①②日常の中に度々ある遣る瀬無さ。それらは徐々に忍び寄ることもあるし、不意を突かれることもある。ままならぬ人生。④しかし、「大方は」誰もみな同じ「水」からできている身の上。「古酒に酔」えば、互いにわかりあえる。

赤松久子(高知)
一斉に蝉鳴き始む晴れ間かな
大雨の爪あと残し夏去りぬ
理系の息子(こ)素朴に神を信じをり
神父さまの〝マリア地蔵〟に秋の風
○南無アッバ八十一の誕生日

*⑤お誕生日おめでとうございます。これまでの人生にはたくさんのご苦労も喜びもあったことでしょう。今それらを振り返る時間をアッバから与えられている。しみじみとした感謝の念が「南無アッバ」に込められている。

F・フランシスカ(八王子)
生き方を示すレビ記の神の愛
選ばれた民に連なる深い縁
庭草の柔らかくなり主病める
壊れゆく命を見つめ南無アッバ
○泣き言を包む花野の南無アッバ

*③④老病はつきもの、と知ってはいても、当事者となれば割り切れるものではない。⑤井上神父も晩年は淋しさ、辛さを隠さず、末期はお苦しみにもなった。真のキリスト者とは、只のの人としてまっとうに生きること。

平田栄一(蓮田)
このところ御無沙汰しているロザリオを二人で唱え始める深夜
「祝初孫娘誕生感謝」としミサ献金を少し弾みぬ


寄贈誌より

 「日矢」五九六号・新堀邦司
ノアの見し雨さながらに梅雨荒るる
孫からの声の便りや星逢ふ夜
○自分への褒美の今日も缶ビール

②近年はネットなど通信技術が格段に進歩したので、遠方でもリアルタイムに「声の便り」が届く。アッバの御声も吾らのすぐ近くに。③それが一本で止まれば、まさに健康的生活!

「こみち」二六二号・魚住るみ子
朝戸出やもう一枚のハンカチを
兄弟の背丈の伸びて夏休み
夏やせに良しといふもの召しませよ

*全句、作者の暖かな思いやりが直に伝わってきます。求道俳句の目指すところは、悲愛の心。井上神父は、「悲愛」は天下国家といった大仰なものではなく、「非常に日常的な些細なもの」と言っていました。


平田講座要約(第33―34回)

2013・2=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

キリストは倫理的に倣うべき模範ではなく、キリスト者は「キリストと同じように生きることが決定付けられている」(web「私もまたイエスのように」)と青野太潮氏は言います。すなわち、私たちの人生は、弱さ・愚かさ・苦しみ・みすぼらしさ・不条理・無意味といった十字架に満ちている。しかしこの事態を、イエスの「つけらてしまったままの」現在完了形分詞形の十字架にあずかる=同定するとき、逆説的に賢さ・救い・祝福されるというのです。そこに「復活」を見る。

p・43


こうみてきますと、かの「対談」で語られた「十字架より復活・・・・」という井上神父の弁はむしろ、「十字架から復活へ」という意味合いを持ったものとして受け取るべきではないかと思います。」


「より」から「から」へ。見方のちがいですが、レオンデュフールによれば、ほぼ十字架=高挙(昇天)=復活を意味したと考えられます(『イエスの復活とその福音』p・87から復活=昇天、p・95から十字架こそ神の栄光=高挙と解釈できる)。これに影響された井上神父は『日本とイエスの顔』で、復活は対象化・概念化できないから、その「体験の絶対性」ゆえ、様々な表現をとらざるを得ない、といいます。「復活」はエルサレム教団、「高挙」はガリラヤ・ヘレニズム教団という図式です。

だから本来一つのことが、3つの表現をとった、といえるのではないか、ということです。

三 「共に在す神」の再発見

■五つの救済論
p・44


このように復活を重視する井上神学を今度は、日本人へ向けた救済論という点から見ておきたいと思います。


復活から初穂理論が日本人に合っているという伏線的な導入です。

余談ですが、先日、妻が叔母の仏教の葬儀に出かけました。宗派にもよるのでしょうが、最近はお経が日本語に読み下した文になっており、大変わかりやすかったというのです。「それは良かった」と私が言うと、「だけど、今までは何を言っているかわからなくても、独特のリズムでなんとなくありがたい、と思って聞いていたのが、今度は却って、こんな怖いことを言っていたのかとわかってしまう。三途の川を渡るための杖がどうしたとか、地獄行きを防ぐにはどうするかといった話で、おどろおどろしかった。やっぱり天国の話がいいわ」と言うのです。

ちょっと笑い話のようになってしまったかもしれませんが、私たちが日頃「ありがたい」と思っている信仰の内実は何なのだろう、と改めて考えさせられる事例でもあったように思います。


神父は先に引用した論説「救いの神秘の表現について」(『風のなかの想い』七六頁以下)で、およそ次のように述べています。

まず、旧約ヤーウェ宗教を精神的背景として、イエスの死を「動物犠牲」と重ね合わせて理解しようとする「償い理論」は、「そのままでは現代日本の私たちにとって到底受け入れ難い」といいます。


罪に対する償いとか、悪事に対する罪滅ぼしというのは、プラスの要素でマイナスの事柄を埋め合わせようとする発想です。心理学的にも人間には誰しもそういう傾向が、確かにあります。しかしその根底には、一たす一は二、一ひく二はマイナス一になるはずだ、という人間の勝手な計算、ある種の合理主義、私たちの思い込みがあります。そしてそれは、因果応報・勧善懲悪的な道徳的発想に通じます。悪事を働いたからその報いを受けたのだ、というような発想ですね。以下の「救い表現」も、「初穂理論」以外は、みな同様の発想に基づいています。

毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 11/22(土)、12/20(土)


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*購読のみの方も含めて、どなたでも参加できます。*年六回奇数月発行*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任*締切=偶数月十日*投稿先:メールでお問い合わせください。*年会費千円(送料共)*ブログ「南無アッバを生きる」に掲載

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