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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

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井上洋治神父の言葉に出会う(37)第31章11~15(第三部おわり)  

「風」第97号2014年夏・秋掲載

一一 「人を裁く」ことの問題点

パウロの回心――「主我的段階」から「無我的段階」へ――を考えるために、旧約聖書から『ヨブ記』、新約聖書から<金持ちの男>ほか、いくつかのペリコーペに触れてきました。少し補足します。

件の『ルカによる福音書』一八章<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>(以下、<<たとえ>>とも略記)でイエスが批判したのは、「こんな駄目な人間(徴税人)とは私はちがうのだ」という「ファリサイ派」の「人を裁く姿勢」(『キリストを運んだ男』三三頁)――悲愛の欠如ということでした。そして井上神父は、

<イエス自身とファリサイ派との衝突の原因はまさにそこにあったのである。>(同)

と言っています。
「人を裁き」、人に石を投げるということは、もちろん良くないことですし、それが「悲愛の欠如」であることは、まったくそのとおりです。ただわたしたちは日々の生活の中で、たいていは口に出さないまでも心の中で、しばしば人を裁いてしまっているように思います。「裁くな」と言われても無意識に裁いてしまう、そこにいかに自己中心性――エゴイズムが根強いものかを感じるわけですが、ここでもう少しわたしなりに――例の青野神学にヒントをもらいながら(多分に我田引水的になるかもしれませんが)――考えてみたいと思います。すなわち、なぜ、そこまでイエスは「人を裁く」ということを嫌ったのか、ということをです。

本稿第三部ではずっと件の<<たとえ>>について井上神父の著書をほぼ時系列的に見てきたわけですが、処女作『日本とイエスの顔』において、すでに井上神父は、「神に代わって」「人を審(裁)く」ことこそ、イエスが最も嫌った姿勢であると強調しており、それを受けてわたしは、

<他者を裁かないことが、イエスの言う正しさであり、それは「ひかえ」の姿勢そのものということになります。>(「風」第八一号、三九頁)

とも述べました。
なぜ「裁いてはいけない」のか、わたしの言葉で言い換えれば、なぜ「ひかえ」の姿勢が奨励されているのか、『キリストを運んだ男』では井上神父は次のように述べます。

回心前のパウロに見られるように、「自分のために神を求めている」主我的段階にある者は、一生懸命ではあるが、ややもすると、

<天に代わるという、傲慢と思い上がりのもっとも大きなあやまち、罪の状態に陥るおそれがある。パウロによれば、本当の意味における罪とは唯一つしかない。それは神の前に己れの義を立てることに他ならない。>(三六頁)。

――これが青野氏のいう「単数で語られる罪」だったわけです。つまり主我的段階にとどまる限り、知らず「傲慢と思い上がり」の「自己義認」が増していき、いつのまにか「神に代わり」「人を裁く」、そこに本来の罪があるということです。だから自己中心から自己相対化、宗教的には主我的段階から無我的段階への移行という回心が必要なのだ、というわけです。

一二 根底に神の「しかり」と「無条件のゆるし」

ここで少し突っ込んで、というより素朴な疑問として考えると、「神に代わって」「人を裁く」とはどういうことでしょうか。
「アッバ」なる神の本質は「悲愛」であり、したがってアッバは、

<悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる方>(『マタイによる福音書』五章四五節)

であり、

<不信心な者を義とされる方>(『ローマの信徒への手紙』四章五節)

であったわけです。それゆえに、

<人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。>(『マルコによる福音書』三章二八節)

とイエスは断言されたのだと思います。アッバの本質が「裁き」ではなく「ゆるし」である、という原点に帰ったとき、その根底にある「無条件・無制限のゆるし」を越えて――ファリサイ派であれ誰であれ、人が人を裁こうとするとき、それはアッバの「無条件・無制限のゆるし」を認めないこと、引いてはアッバの「悲愛の本質」を否定することになるのではないでしょうか。

この「無条件・無制限のゆるし」の「福音」は「無条件・無制限」ゆえに万人に開かれています。「そんなことはない。律法をしっかり守らない――(井上神父の表現を使うなら)『神様の顔に泥を塗っている』やつらにまで、そんな都合のいい話はない」とファリサイ派は考えたかもしれません。しかし事実は、井上神父が『ルカによる福音書』一八章の三つのペリコーペを検討しつつ<金持ちの議員>の「中心点」として述べたとおり、「人にはできない事も神にはできる」――この文脈で言えば、金持ち(でさえ)も神の国に入ることができるのです。誤解を恐れず言うなら、「そんな都合のいい話」であるからこそ、驚くべき「福音」(良き知らせ)と呼べるのではないでしょうか。

それゆえ、自他を分別し、自らを「ファリサイ」(分かたれた者)として「義人」「神を恐れる者」とし、律法を守らない(守れない)者を悪しき罪人して「裁く」ことは、アッバの御心から最も遠いことになります。反対にイエスは、また井上神父の愛するテレジアは、このように誰をも「裁くことなく、まず受け入れる」(風の家の祈り)母性原理に立つアッバを見事に見抜き、「赤子・童心」「子供心」をもって、安心してアッバに甘えることを奨励したのでした。

根本にアッバの「無条件・無制限のゆるし」、神の「しかり」があるということ、そして「裁く」ことは、その「しかり」の否定であるということ、このことを青野神学から学んだわたしは、アッバ神学=井上神学の「悲愛」ということも、より鮮明に理解できるようになったように思います。

さらに言えば本稿では、罪=エゴイズムの問題や「自己相対化」の必要を井上神学から学んできたわけですが、それらも神の「しかり」、「無条件・無制限のゆるし」があってはじめて問題になってくるのだ、ということも改めて知ったのでした。したがって、ここまで『キリストを運んだ男』で見てきたような、主我的段階から無我的段階への移行ということも然り。神の「無条件・無制限のゆるし」が大前提になっているということです。

井上神父は『わが師イエスの生涯』の中で、

<福音書は、生前から死後の「復活者顕現物語」まで、まさに一貫して、(アッバ、またそれを体現したイエスの)ゆるしのまなざしによる、弟子たちや人々の回心の物語である。>(一九〇~一九一頁ほか)

と言っています。だからこそ、イエスの弟子たちがどのように「回心」したか、引いてはわたしたちがどのように回心に導かれるのか、が福音書(新約聖書)の「実践指導書」(『日本とイエスの顔』)としての大切な意味になるわけです。しかしそのためにはまず、この定義の前半、「アッバのゆるしのまなざし」をしっかりと抑えていなければならないのです。

そこで今ふりかえれば、わたしが井上神父と出会い、洗礼を受けてから後も、「為す愛」の倫理問題などで心が揺れていたのは、このアッバの「無条件・無制限のゆるし」、神の「しかり」への信頼が不十分であったから、とも言えるのです。

一三 「回心」を振り返る

井上神父は『キリストを運んだ男』第二章で、『ルカによる福音書』二三章や『使徒言行録』七章、同九章などを引用し、福音記者ルカの意図をたどりながら、パウロの回心への道を次のように推測します。すなわち、『使徒言行録』にあるようなパウロの決定的回心――それはルカの文学的脚色を含むとしても――には、なんらかそれを「準備」する期間、出来事があったはずである。その最大のものが、ステファノの殉教にパウロが立ち会ったというルカの記事にある、と。

<ルカは、死の場面でのイエスの言葉と姿勢にステファノのそれを重ね合わせることによって、一体何を言いたかったのだろうか。パウロは、自分が迫害していたキリスト者の姿と重ね合わせにイエスの生き方を見、そこにおいてイエスの悲愛の真髄にふれたのだ、ルカはそう言いたかったのではないだろうか。>(四七頁)

これが「第二章 ファリサイ人と徴税人の祈り」の結語です。
さらに神父は、次の「第三章 回心への道程(みちのり)」に入って、パウロと「同種の体験」を「自分の中で想像力を使って拡大」することにより、「パウロの回心の過程に迫」ろうとします。そこで例の「リヨンの回心」体験が述べられます。これについては、井上神父の他の著作でも度々取り上げられていますが、本稿においても件の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>を追っていく大きなきっかけになった重要な体験ですので、この本からも該当箇所を改めて引用してみたいと思います。

<今からもう三十年以上もまえのことになるが、私は大学を卒業してフランスに渡り、カルメル会という修道院で生活していたことがあった。カトリック教会に入信してからそう長い歳月がたっていないこともあって、ファリサイ派にも似た〝頑張リズム〟の生活を送っていた。全身の努力で、人はかくなければならないという道を走っていたような気がする。今から振りかえれば、まことに気恥ずかしいような、またいとしいような思いがするのであるが、とにかくそのときは一生懸命で、倒れてのち止まん、というような意気込みであった。しかし時がたつにつれて、何かある空しさというか、あせりというか、精神的な息苦しさというか、うまく言葉では表現できないが、何かそういった鈍い痛みのようなものが私の心をとらえていった。それはちょうど、走っても走っても追いかけてくる自分の影法師からのがれようとする努力にも似ていた。私は、更に自我との戦いへの努力に拍車をかけた。それでもなお何か、向こう側からどかんとぶつかってくる壁にであわないといったようなむなしさに追いかけられていたのである。私が先ほどの「ルカ福音書」一八章のイエスのたとえ話に出会ったのは、まさにそのようなときであった。>(五〇~五一頁)

本稿第三部でわたしは、この井上神父の回心体験を、『日本とイエスの顔』(一九七六年)や『余白の旅』(一九八〇年)などから取り上げ、その「強烈」で「深い」「衝撃と不安」に焦点をあてて分析を試みました。しかし右の引用箇所では、むしろその決定的な回心に至る前の精神状態が、神父自身によって詳しく語られています。それは、「人はかくなければならない」という「ファリサイ派」的「〝頑張リズム〟の生活」のなかで感じる「空しさ」「あせり」「息苦しさ」であり、また「鈍い痛み」を伴うものだったといいます。

しかしその苦しかった日々を「今」(一九八六、七年)振り返ると、「気恥ずかし」くも、「いとしいような思い」がすると言っています。おそらくそれは、処女出版である『日本とイエスの顔』から一〇年を経て、念願の「風の家」を立ち上げられたことによる安堵感のなかで、三十有余年前の「頑張リズム」の若き日々を客観視し、静かに受け入れている証左であると思います。そして同時にそれは、あの苦闘の日々から回心を経て今日に至るまでの、日本人キリスト者としての課題――自ずから心の琴線に触れるイエスを求めていくという長い旅路のはじまりを、忘れがたい思い出として常に心に刻んでいる証拠でもあるのではないでしょうか。

一四 三つの祈り

この回心体験を振り返りつつ井上神父は、パウロの「回心への道程」を推測していきます。

<律法に熱心であればあるほど、忠実であればあるほど、ある種の不安にも似たむなしさが、意識の奥からはいあがってくる気配をパウロは感じていたにちがいない。>(五一頁)

パウロのこの「不安にも似たむなしさ」は明らかに、ヨーロッパにおける修道士・井上が感じていた「あせり」「空しさ」と二重写しになっています。テレジアの境地を求めてはるばるフランスに渡り、修行に励みながらも、どこかでその努力が空回りしている「空しさ」。それは人一倍、律法の実行に励みながらも、ついには神との出会いにまで至らなかったパウロの「空しさ」と根を同じくするものと推測されます。

その根本原因とはすなわち、「からだの中の律法」、「常に自己を主として生きんとする、いわば業のようなもの」であると、神父は分析します。これがまさに、先に記したような、「人を支配する」「根源的な倒錯」としてパウロが最も重視した「単数で語られる罪」なのだと言えましょう。

こうして、律法に熱心である程わきあがる「むなしさ」――「律法において、神に出会い、相対化されえなかったもどかしさ」を感じていた迫害者パウロは、ステファノに象徴されるキリスト者たちの殉教を目の当たりにし、一八〇度の回心に導かれます。それはパウロが、こうした信者たちの、すなわちパウロが迫害してきた人たちの生きざまをとおして、「イエスの悲愛の精神にぶつかった」からである、と神父は言います。

<そのときパウロは、迫害しているキリスト者のなかで、自分に怨みや呪いを投げかけてくるのではなくて、あのイエスのような、またステファノのような祈りを神にむかって捧げる信徒に出会ったのではなかっただろうか。>(六八頁)
ルカの示した文脈から井上神父は、機が熟した迫害者パウロが出会ったのは、自分が迫害している当のキリスト者の、思いもかけぬ祈りであり、それは遡ってステファノの、そしてイエスの悲愛の祈りだったと推測します。

<張りつめられた糸はいつか切れる。熟した柿の実はいつか地に落ちる。
律法という神の意志を自らの背に荷い、律法を守らない者、駄目な者を片っぱしから裁き続けてきたパウロは、ふとあるとき、自分の歩んできた道の後ろに、パウロに無残に切り捨てられながらも、なお「罪人の私ですがどうぞよろしくお願いします」という、あの「ルカ福音書」一八章の徴税人の祈りを繰り返している人たちの、切々たる痛みと哀しみの叫びを聞いたのではなかっただろうか。そしてそれによって、それまでの自分の人生が、いっきょに足もとから、がらがらと音をたてて崩壊していくのをおぼえたのではなかっただろうか。>(六八~六九頁)

ルカによれば、迫害者パウロが聞いた「思いもかけない」祈り――「あのイエスのような」祈りとは、具体的には、『ルカによる福音書』二三章の言葉、

<「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」>(三四節)=(A)

<「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」>(四六節)=(B)

です。また、「ステファノのような祈り」とは、『使徒言行録』七章の言葉、

<「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」>(五九節)=(B′)

<「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」>(六〇節)=(A′)

です。
先に井上神父は、ルカがイエスとステファノの死の場面を重ね合わせることによって、当時の「キリスト者の姿」がパウロを回心に導いた、と言いたかったのだと推測していました(四七頁)。そしてここでは、<<たとえ>>にある「徴税人の祈りを繰り返している人たちの、切々たる痛みと哀しみの叫び」がパウロの回心を導いた、と言っています。ということは、神父のなかでは、イエスやステファノの末期の祈りと<<たとえ>>の「徴税人」の祈りとが同定されているということになるのではないでしょうか。

一五 結実する「徴税人」の祈り

右のイエスやステファノの祈りのうち、AやA′は、自分を迫害する者、敵を呪うのではなく、どこまでも赦そうとする、「ゆるし」と「とりなし」の祈りです。それはいかなる人をも裁かないアガペー・悲愛の究極の表出であり、パウロの見方からいえば、「不信仰」で働きのない者を無条件・無制限に赦す(『ローマの信徒への手紙』四章五節)――義とするアッバにならう、すなわち、後に「信仰義認論」として展開される神観にもとづく祈りと言えましょう。

また、BやB′は、すべてをアッバにお任せし、「ゆだねる」南無の祈りです。

そしてこれら「ゆるし」「とりなし」「ゆだねる」祈りが、井上神父によって「徴税人」の祈り――
<神様、罪人のわたしを憐れんでください。>(『ルカによる福音書』一八章一三節)

と同定されているのです。
この祈りの意味について神父はさまざま書いており、この場でもそれらを逐次取り上げ、述べてきました。本稿第三部は、およそその意味の探求に費やしてきたと言ってもよいでしょう。

たとえば、「悲愛へ導く行として」「いつでも自分の至らなさと醜さとに自分の胸を叩き」「しかし同時に、」「その(罪人の)自分をそのままの姿で包みこんでいてくださる神の無限の悲愛の心に感謝し、合掌し、少しでもイエスの心に自分を近づけてくださることを願っている」――「アッバへの絶対信頼の祈り」として(「風」八五号)。

あるいは、「自分の至らなさを恥じ、そしてわびる」――本稿第二部でみた「至らなさ」の自覚や「恥」意識、また「申し訳ない」と「わびる」ところの「罪意識」を持つ祈り――わたしたち日本人キリスト者が常に振り返るべき「信即行」の祈りの模範として(「風」九三号)等々。

これら三者――イエス、ステファノ、「徴税人」の祈りを同定する井上神父の思いとはどのようなものなのでしょう。

まず、「徴税人」の祈りは直接的には、自分は悪い者ではあっても、すべてをアッバにお任せしよう――罪人の自覚と神に対する全幅の信頼の祈りと言えます。ということは内容的に、先のイエスの祈りB、ステファノの祈りB′につながります。
しかしこの「徴税人」の祈りは、これまでみてきたように、罪の自覚と神への信頼に留まらず、そこから、祈る者を「イエスの心」へと近づけ、人に石を投げず、人を裁かない、「為さざる愛」――悲愛へと導く、積極的な意味を持ったものでした。まさにその具体が、イエスやステファノの最期の祈り――他者を「ゆるし」「とりなす」祈りA・A′として表出しているのではないでしょうか。

第三部では、井上神父が言及する「信仰の秘密」ということも検討しました。すなわち、なぜイエスは、ダメ人間とわかっているわたしたちに、それでも悲愛を説いたのか、という問題です。そこで得た結論は、わたしたちが、「徴税人」の祈りにならい、罪の自覚とアッバへの信頼を深めるほど、「イエスの心」――悲愛へと導かれるのだ、という一事です。そこに「信仰の秘密」があるのだと。

ルカの筆によれば、イエスの祈りはA→B、ステファノの祈りはB′→A′と、順序が逆になっています。これはわたしの推測ですが、ルカは、AA′―BB′の前後関係を不可逆的なものではなく、わたしたちが頭を下げるほど悲愛へ、悲愛の心が増すほどまた頭を下げる、という相互作用として捉えていたのではないでしょうか。

総じて、「徴税人」の祈りの究極的な形――悲愛の姿がイエスとステファノの最期の祈りに結実している、そのように井上神父は受け取っているのだと思います。(第三部おわり)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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