「南無アッバ」を生きる ホーム » 求道詩歌誌「余白の風」 »求道俳句誌「余白の風」第210号 2014年9月 発行

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

求道俳句誌「余白の風」第210号 2014年9月 発行  

*日本人の心の琴線にふれるイエスの顔を求め、福音を生きる

会員作品とエッセイ(◎○主宰推薦句 *選評)

F・フランシスカ(八王子)
平和旬間バトンを握り南無アッバ
○九条が揺れる震度に目を覚ます
十字架の平和しみじみと八月
留守番をしたと嵩増す夏の草
熱風の街生かされているふしぎ
緑蔭の清風に会う南無アッバ

*②公民館だよりに、「九条守れ」の句を載せなかったことで世論が沸騰している。市は「世論を二分するテーマは避けるべき」と勝手に判断する前に、全公務員に課せられている「(「この」=現行)憲法尊重擁護の義務」(九九条)があることを忘れてはならない。

魚住るみ子(練馬)
○忘れ易き脳(なづき)を励まし記憶をたどる あれは あの時 南無アッバ
嬰児はすとんと寝入りぬ母を呼び泣きゐしものを母の乳足らひ 南無アッバ
春深しバス停二つまどろみぬ

*①「老いは今まで頂いてきたものを一つずつお返し申し上げる時」と井上神父は常々おっしゃっていました。その寂しさのなかにあっても「南無アッバ」②老いる程に、私たちはこの「嬰児」の単純さ、素直さに学ぶべきなのでしょう。

片岡惇子(名古屋)
向日葵や果てるところに君がゐる
壊れゆく命を包み百日紅
百日紅風に逆らひ瞬に散る
○蝉時雨半音下げて祈りの刻
八月や言葉失ひロザリオ繰る
八月やどの道行くも焦げ臭き

*どの句にも日常と非日常の対比が巧みに表現されている。④「蝉」も「祈りの刻」には音程を変える。⑤「ロザリオ」を唱え始めてしばらくすると、心と頭が澄み切ってきて唱える「言葉を失う」時がある。共感。

佐藤淡丘(豊田)
遠き日の一日を借りて田水張る
梅雨寒や心の棘のありどころ
蝸牛殻に潮騒宿しをり
青あらし水甕の水溢れざる
○あぢさゐとひらがなでかくうなじかな

 井上神父さまが、お亡くなりになられても「アッバ神学」は、今も私の中に生きています。その実践の場は、早朝の「会神の丘」であります。自分を無にして、キリストへの「信入」です。
 キリストの中へ自分を棄てる。そのとき、みたまの力により、塵芥のように大地に溶け込み、心から「南無アッバ」と唱え、そして癒されてゆくのです。アーメン、南無アッバ。

*③「蝸牛」にとっての「潮騒」は、それこそ数億年の遠い記憶かもしれません。⑤最近、初孫娘が生れました。こんな光景がいつ見られるのか、楽しみです。

西川珪子(一宮)
学童の声に負けじと苗育つ
うすものや母の墓なり南無アッバ
戦なき世を願ふ八月の水
◎大き種抱へる枇杷の原罪は

*近年とみに暑い日本の夏は、考えさせられる事件や話題も多い。③集団的自衛権、原子力発電所再稼動問題・・・「八月」の死者の声いかに。④「大き種」に象徴される人間の「罪」。むろん「枇杷」に責任はない。

ユックリン(広島)
飛び去らず我に寄り来る蛍かな
飛び立てず我に寄り添う蛍火よ

*二句並べての出句、味わいの違いを考えさせられる。①強い「蛍」②弱い「蛍」という印象がまずあって、しかし、「寄り来る」より「寄り添う」方に、人生同伴者の親近感は深いかと。

赤松久子(高知)
著作集伝へ行くらむ師の思ひ
師と亡夫(つま)と同じ命日桃の花
指細り結婚リング右の手に
○ヘルパーと別れを惜しむ五月闇
愛らしき地産地消の苺かな
友よりのトマト食みつつ南無アッバ

  使えなくなったカード(詩)
 神父さまにさし上げようと/用意していたイースター・カード//お目にご負担がかからないようにと/考えに考えぬいた短い言葉の下書き//それらを地上に残して/ あなたは/ アッバのみ許に行ってしまわれた。//下書きは破ってしまったけれど/このカードは誰にもあげず/ずっととっておきますね。/ 南無アッバ

*④それが今生の「別れ」にならないとも限らない。井上神父に最後にお会いしたとき、不自由な身体をおして見送ってくれた。神父は「最期」と覚悟していたのかもしれない。

平田栄一(蓮田)
桑の木に登れば見える主の姿
患難は望みを産めり秋の山


寄贈誌より

「日矢」五九四、五号・新堀邦司
鳥たちは瑞枝に歌ひ復活祭
復活祭の花を献げて父母の墓
地ビールの名も「深大寺」ほろ苦し
父の日や少し濃い目のウイスキー

「風」(井上洋治神父追悼特集)を一晩で読ませていただきました。一度もお会いする機会がなかったのに、井上洋治神父様のお人柄と「南無アッバ」の信仰を身近に感じることができました。読み終えて、私も思わず「南無アッバ」と口に出してしまいました。「南無アッバ」は、神様の寛やかな愛に包まれていることへの心からの感謝が込められた言葉ですね。
 神様への全幅の信頼から発せられた言葉ですね。よほど身近に神様の存在(共在)を感じられなければこの言葉は口にできないと思います。
 井上神父様のご提言の中で、「下からの神学」「即自然的神観」には共鳴するものがあります。

*新堀さん、ありがとうございます。このところ、生前は井上神父と直接面識のなかった何人もの方から、このように神父を慕うお言葉を頂いており、心より感謝申し上げます。

「花組」六三号・あざ蓉子
秋の暮石のひとつを撫でている
永遠にあなたの笑顔そらの春

「祭演」四八号・森須蘭
落つための力溜め込む紅椿
身の内に関所がありて春朧


平田講座要約(第33回)

2013・2=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p・42
「泥まみれになった一葉の紅葉が、己を無にして無心に散ったが故に、秋風を私たちに告げているように、馬小屋から十字架までの一見色あせ挫折したようにみえるイエスの生涯もまた、神の働きの偉大さを告げるという、深い重大な意味をもっているのだということになるわけです。」(『人はなぜ生きるか』二〇〇頁)

ここを、先のカール・ラーナーの「原初的経験」(p・34)に照らしてみると、人間的に見れば、すってんてんで死んだイエスがアッバの懐に迎え入れられた、だから私たちのどんなにみじめな人生であっても、アッバは迎え入れてくださる(くださっている)、ということです。先の青野太潮さんの「私もまたイエスのように」という「十字架の逆説」を思い出します。
p・43
 ここには、イエスのこの世(三次元)での全生涯――病人や罪人の友となり、惨めに死んでいった生涯が十字架に集約され、さらにそれが復活を通して、御父により超三次元の世界=神の国へとアウフヘーベン(aufheben:止揚)されたのだ、という信仰を読み取ることができます。そしてわたしたちの苦しみを、十字架を頂点として共に担ってくださったイエスが、さらに復活を通して御父のもとへ、神の国へとわたしたちをまちがいなく送り届けてくださるのだ、という確信があるのです。

「アウフヘーベン」は、ヘーゲル弁証法の用語です。2つの矛盾するものを統合すること。正・反・合とか、否定・保存・高次といった言葉で説明されます。ここではたとえば、正=イエスのアガペーの生涯、反=惨めな十字架、そして合=神の国・救い・祝福といった様にあてはめて考えられます。

しかしこの場合も、井上神父の念頭にあるのは、罪も背負ってくれたけれど、「共苦」のニュアンスの方が強い。「共に担ってくれた」=青野神学的にいえば、「弱さ・愚かさ・みすぼらしさ」の連帯です。

毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 9/27(土)、10/18(土)

―――――「余白の風」入会案内―――――
*どなたでも参加できます。*A5判両面1枚、年六回奇数月一〇日発行。サイドバーに見本があります。*投稿は原稿用紙使用。採否主宰一任 *締切=偶数月十日 *投稿先:メールでお問い合わせください。*年会費千円(送料共)*ブログ「南無アッバを生きる」にも掲載。

category: 求道詩歌誌「余白の風」

tb: 0   cm: 1

コメント

自分を無にする、というより、私のシンキングマインドの「コントロール・アジェンダ」「コントロール幻想」を手放す、諦める、神や仏や青空や文脈に委ねる、神の御心、ままに、かなあ(^^;)

nakamura795 #- | URL
2014/09/06 07:45 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/2572-a18e7d27
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

講座・南無アッバの集い

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

カテゴリ

全記事表示リンク

▲ Pagetop