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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

平田講座要約(第三〇回下~第三一回上)  

2012・11、12=テキスト『心の琴線に触れるイエス』
p・41D(続)
「アッバの働きの場」として、苦しみや挫折を「素直に受け入れよう」としても、私たちにはなかなか難しい。それで前回、これは井上神父はあまり触れていませんが、『ローマの信徒への手紙』四章五節を紹介したのです。

ここに出てくる「不信心(不敬虔)な者を義(正しい者)とする神」ということを、もう一度確認したいと思います。最近、「信仰と行い」を巡って、改めて「信仰義認論」や「贖罪論」をかじっているのですが、先日(二〇一二年夏)、井上神父様と話した時、私が「パウロ主義の基本は信仰義認ですよね?」と質問したのに対し、井上神父は、「それが簡単には言えない」との返事をされました。

ただ、「信仰義認」といったとき、カトリックはプロテスタントより馴染みがないかもしれませんが、私は福音の要だと思っています。
しかしこのローマ4・5をよく見ると、それは「行い」に換えて「信仰」で救われる、というのではないのですね。【加藤常昭説教集から該当箇所を紹介】

皆さんは、この話をどう読まれましたでしょうか。あとで分かち合いの時にでも感想を聞かせてください。わたしとしては――合理主義の否定ということが、まずあるのではないかと思うのです。

1+1=2ですが、こういう人間の合理主義を信仰にあてはめて、カトリックが、信仰+行い=救い、とか、プロテスタントが、いやいや、信仰=救い、だとか・・・こういうのは皆、人間の合理的論理的思考を、神様にあてはめた教義にすぎない、ということ。「勧善懲悪」や「贖罪」や「償い」という発想も、人間の算術的な発想、観念であるように思います。

神様の法則はそれをどんでん返しする、驚くべき「福音」だというのです。ローマ4・5は、業績や行いに換えての信仰ではないし、まして律法に換えての、あるいはそういう律法を集約して「愛を掟」化をしたものではないということ。大前提に、「アッバ」と呼べる神は、日頃は「神などいないかのように生きている」=「不信心・不敬虔」な私たちを「無条件」で救ってくれる!ということが言われている。

悲しいかな、こういうとすぐ、人間は極端に走る心配がある――(参考までに紹介=五木寛之『親鸞』「造悪無碍」=悪を働くこと障りなし=本願ぼこり、あるいは反対に「専修賢善」=ひたすら念仏し善い行いに励むべし)
けれども根本は、青野太潮先生がいうように、神の「無条件のゆるし」は、「もしかしたら人間をだめにしてしまう可能性をはらむ」程のゆるし=福音なのです!

そう聞かされても、すぐ「ホンマかいな!!?」と疑う、その私=まさに「不信心」な、ダメな私を、さらにその下に手を差し伸べて、抱き取ってくださる。疑って下へ、下へ落ちていく程に、もっと下の方から救い上げてくれる。そういう神様に信頼すれば、救われる――ここまでくると、もう信頼するしかない、と追い詰められちゃう感じですね(笑)。

category: 南無アッバの集い&四谷講座

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