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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

井上洋治神父の言葉に出会う(36)第31章7~10    

「風」第95号2013年冬掲載
七 <金持ちの男>

ここでわたしはさらに、『マルコによる福音書』一〇章にある、<金持ちの男>の話を思い出すのです。井上神父は『キリストを運んだ男』の中ではこのペリコーペについて触れていないのですが、かつてわたしは、勤務校の「世界文化史」という授業のなかで、生徒に次のように解説したことがありました。まったく聖書の予備知識がないことを前提とした、高校生向けのものではありますが、今度は当時の原稿から抜粋させていただきます。
――――――――
<――『マルコによる福音書』一〇章一七~二七節を引用(略)――

「ある人が(イエスの所に)走り寄って、ひざまずいて尋ねた。」(一七節)という記述からは、この人のそのときの気持ちが察せられます。
 かなり焦りというか、せっぱつまった感じです。
 また、「ひざまずいて」というのですから、この人はイエスを尊敬していたんでしょうね。
 今まで話したことはなかったんだろうけど、うわさで伝え聞いたりしてイエスのことはだいたい知っていた、すごい人らしい・・・・そんな感じでしょう。
 そして呼びかける、「善い先生!」と。やっぱりイエスを尊敬していたことを思わせる言葉です。

 ところが、イエスはこの呼びかけに対して、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(一八節)と答えます。
 このイエスの最初の反応は、どうだろう?
 すぐ思いつくのは、イエスの謙虚さ、謙遜ってことだね。

 「自分は『善い先生』などと呼ばれるほどの者じゃないよ・・・・」という、偉い先生だからこその謙虚さ――。
 ただぼくは、それだけのことなのかな? と勘ぐっちゃいます。
 何かもう少し深い意味が隠されてやしないか・・・・どうだろう?
 ・・・(略)・・・
このイエスの否定の言葉をもう少し、つっこんで考えてみたい。単にイエスの謙遜の思いから発した言葉じゃない、ということをね。

 それで、この場面をもう一度、想像してみましょう。
 「ある人」はイエスに「走り寄って」、「ひざまずいて」、いきなり、「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか。」といいます。
・・・(略)・・・
きっとこの「ある人」は、すごく真面目で一途な人だったんでしょう。
 それはこの後の一八~二〇節あたりのイエスとのやりとりからもわかります。
 人生、いかに生きるべきか、ってことを真剣に考えていたんだろうね。
 だからこそ、ともかく早くその解答を「善い先生」に教えてもらいたい、そういう気持ちが強かったんでしょう。
 
 「金持ちの男」は、神の掟をいっしょうけんめい守って、幸福をつかもうとしました。
 原文一九節の、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」っていうのは、「モーセの十戒」といって、キリスト教が出てくる母胎となったユダヤ教では、基本中の基本の掟です。

 ユダヤ教というのは、こういう掟=「律法」を怠りなく守ることで、救いに預かれる、って信じている宗教です。
 でもこうした掟をいくらきまじめに守ってみても、どうも今ひとついきいきした充実感がない・・・・。先祖代々の掟をしっかり守れば救われる、と言われてきたのに、どうもちがう感じがする・・・・、とても正直で、誠実な青年の気持ちです。
 でもなんでだろう?

 ここからはぼくの読み、解釈になるわけだけれど、それは根本的に、自分がいっしょうけんめい掟を守ろうとすればするほど、「おれがこの掟を守る、おれが頑張る、おれ、おれ・・・・」という「おれ」意識にがんじがらめになっちゃっていたんじゃないかと思うんです。

 まじめに人生を考えよう、もっといきいきと生きていきたい、そういう希望を持つからこそ、一生懸命頑張る。でも頑張れば頑張るほど、「おれ」が頑張ってる、自分が努力している、という意識=「おれ」意識にかたまっちゃう。まわりで人が倒れていようが、目に入らない・・・・そこに根本の問題がある。なんか哀しいけど、これがぼくたちの現実なんじゃないかな、って思う。

 この「金持ちの男」はある意味でぼくたち人間の代表といってもいいんじゃないかな、と思えてくるんです。
 そこで、「善い先生!」という彼の呼びかけに対して、イエスが「わたしはそういう者じゃないよ」ってかわしたのがジャブだとすれば、二〇節、彼が、「先生、そういうこと(掟)はみな、子供の時から守ってきました」と胸を張って答えたのに対して、今度は二一節、イエスが、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」っていうのは、ノックアウト。つまり、「金持ちの男」の「おれ」意識=自我(自己)中心性をイエスがたたいた、ということじゃないだろうか。
 
 でもね、「金持ちの男」に意地悪したんじゃないと思う。
 それは、二一節の「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」という言葉からも明らかだ。
 この男を思いやって、彼の「おれ」意識、自我にジャブをかまし、ノックアウトしたんだと思うんです。
 そういうふうに、ぼくはこの話を読んでいます。

 ぼくたちはいつも、なにかにしばられている感覚とか、将来への不安、そういうものから自由になることを願っていないかい。どんな高尚な哲学を持ってきてもこの現実は否定しようもない。
 
 <その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。>(二二節)
 
 この話でイエスは、結果的に彼を突き放したように終わっているけど、そうじゃないと思う。
 「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(二一節)という言葉には、この男はけっきょく財産を捨てられないだろう、ってことをイエスが十分承知していた、というニュアンスも含まれているんじゃないかな。

 それでも、この男に自分の中の「おれ」意識に気づかせる必要があった。そうしなければ、この人にほんとうの幸せはこない、そう思ったんだろうね、イエスは。
 この男が無意識にこだわっていた「おれ」意識。それは、「財産を捨てろ」といわれて、やっぱり「捨てられない」財産へのこだわりとして顕在化(表面にあらわれること)、意識化された。気づかされた。
 ・・・(略)・・・>(「『おれ』意識――自己中心性の問題」(二〇〇八年)より)
――――――――――
このペリコーペは、ヨブに病を契機とした自我粉砕体験があったように、この「金持ちの男」にも、イエスによって自我中心性の気づきが与えられたことを述べているのだと思います。

八 福音記者の編集意図

ちなみに、このペリコーペの並行箇所を含む各福音書の前後の構成は次のようになっています。


『マルコ』一〇章以下:離縁について教える→子供を祝福する→金持ちの男→イエス、三度自分の死と復活を予告する
→ヤコブとヨハネの願い
『マタイ』一九章以下:離縁について教える→子供を祝福する→金持ち青年→「ぶどう園の労働者」のたとえ→イエス、三度死と復活を予告する
『ルカ』一八章以下:「やもめと裁判官」のたとえ→「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ→子供を祝福する→金持ちの議員→イエス、三度死と復活を予告する


 この表を眺めてみますと、件の<金持ちの男>(「青年」または「議員」)は、三福音書とも<子供を祝福する>の直後に置いています。歴史的には『マルコ』が一番古いので、マルコの編集に『マタイ』と『ルカ』がならったもの、うがった見方をすれば、これら二つのペリコーペをつなげた福音記者マルコの編集に、マタイやルカが同意したということだと思います。

 では、この二つのペリコーペの「つながり」にはどんな編集意図があるのでしょう。先にわたしは<善いサマリア人>と<マルタとマリア>の「つながり」の意図を想像してみました。同じように、以下はわたしの推測でしかないのですが、アッバ神学を学ぶ者として、次のように編集意図を考えてみました。

すなわち、<金持ちの男>に上に述べたような、自己相対化の契機を促す意図があったとすれば、その直前にある<子供を祝福する>は、その意図への導入、同意、強調、あるいは補足する意味があったのだろう。と。

『ルカによる福音書』における<金持ちの議員>は、件の<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>と同じ一八章に、<子供を祝福する>を挟んでその後に配置されています。この編集にも大事な意図を感じます。
井上神父は「幼子の心・無心」と題した『日本とイエスの顔』第八章で、次のように語っています。

<ルカがこの話(<金持ちの議員>:平田注)を、先程も引用した〝取税人とパリサイ人の神殿での祈り〟のたとえ話と、童心に帰ることをすすめたイエスの言葉とのすぐ後に置いているということを、私たちは見のがしてはなりません。ルカがこの金持の役人の話を、前の二つの話と連関したものと考えていることは明らかなことだといえます。

だからこそ、ルカはこの三つの話を一八章に並べて編集するという作業をおこなったのだと思います。そう考えれば、この話の中心点は、持ち物を全部売り払えという点にあるのではなくて、いちばん最後の〝人にはできない事も、神にはできる〟というイエスの言葉にあることがわかります。>(二一一頁)

九 「幼子の心」と自己相対化

一九八〇~八一年にかけて、井上神父の『日本とイエスの顔』の輪読会に出ていた頃(『すべてはアッバの御手に』「プロローグ」参照)、この「子供」の態度が推奨されているのは、その純粋無垢な子供のイメージではなくーー子供は子供なりのエゴイズムを持っている――そのストレートな他者依存性にある、と聞いてショックを受けたことを思い出します。

若かったわたしには、他者依存――人に甘えるということが、どうにもマイナスのイメージでしか捉えられなかったからです。
しかし「子供」の他者依存性――「幼子の心」は自己絶対化たるエゴイズム(罪)をこえた自己相対化と密接に関係します。

<①弱ければ弱いほど、みじめであればあるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さるのだ。
②童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐れみの愛を信頼すること――それだけでよいのだ。
③エゴイズムや汚れなどというものは、神のふところに飛び込みさえすれば神がご自身できれいにしてくださるのだ。>(『私の中のキリスト』七三~七四頁、数字①~③は平田付記)

これは、本稿第三部ですでに引用した井上神父の言葉ですが、晩年に「わたしの人生はテレジアに始まりテレジアに終わる」と神父に言わしめた、リジューのテレジアの霊性――「童心・赤子」の道が、端的に示されています。
この機会にこの言葉を使って、井上神学――アッバ神学における「幼子の心」と自己相対化との関係を確認しておきたいと思います。

①「弱ければ弱いほど、みじめであればあるほど、不完全であればあるほど、神はその人を愛してゆたかな恵みを下さる」とは、
<わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。>(『マルコによる福音書』二章一七節)
というイエスの言葉を思い起こさせます。それは、
<悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる>(『マタイによる福音書』五章四五節)
アッバなる方の、無条件・無制限の「ゆるし」を意味しています。

②この「ゆるし」「愛」「恵み」をいただくためには、「童心に立ち返って、只ひたすらにこの神の深い憐れみの愛を信頼すること」、ただ「それだけでよいのだ。」
今わたしは「いただくためには」と書きましたが、ここで気をつけなければいけないのは、②が①の必要条件になっているのではない、ということです。①なるアッバの「恵み」「ゆるし」――「愛」は、文字通り「無条件・無制限」なのであって、こちら側――人間の態度によって、それに応じて変わるものではないのです。

一〇 「信仰義認論」とアッバ神学

この辺りのことは「信仰」と「行い」についてすでに述べたことと関連してくるのですが、パウロは、
<不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。>(『ローマの信徒への手紙』四章五節)
と言います。「働きがなくても信仰がある」というとき、「働き(行為・律法)」に代わる「信仰」があれば「義」=正しい者とされるのだ、という意味で「信仰義認」が語られることがありますが、この聖句ではそうは言っていません。

まず根本原理として、「不信心な者を義とする」と宣言しているのです。「不信心な者」とは、文字通りには「信仰のない者」「不敬虔な者」であり、なかには、「神を神とも思わない者」などと説明している解説書もあります。つまりそもそもが、その人の「働き」(行い、律法)も「信仰」すらも問題にせず、無条件・無制限にゆるされる、ということを宣言しているのです。

その上で、そうした無条件・無制限の「ゆるし」をお与えになる「方を信じる」――神はそういう方なのだ、ということを受け入れて信頼するなら、その「信仰」が「義」とされる、というわけです。
パウロの「十字架の神学」研究で知られる青野太潮氏は、次のように述べています。

<なぜならば、パウロの信仰義認論は、神なき不敬虔な者を、たとえ働きがなくても、行ないがなくても義とされる神の意志に基づいているのであって、信仰とはただその神の意志を受容することを意味しているからである(ローマ四・三以下)。つまり、神が義と認められるのは、その弱さと罪深さ、足りなさのすべてを内に含んだままの人間そのものなのであって、そのいわば陰の部分を取り除いた「良質」の部分だけを義と認められるわけではないということが、そこでは意味されているのである。

このことは、神はまさに人間の弱さのうちに働かれるということとひとつであるということと同時に、将来の完全な救いが何か現実の弱さを担った生身の人間とは質の異なった存在を指示するのでは決してない――もちろんパウロの考える将来の救いが、生身の人間と同じ肉体を伴っているなどという意味ではもちろんない――ということをも意味しているのである。>(『「十字架の神学」の成立』一一九~一二〇頁、傍線平田)

とくに『ローマの信徒への手紙』四章五節を中心にパウロの「信仰義認論」を語る青野氏の考えは、アッバ神学を補強してくれるもののように思います。というのは、右に述べた意味での「信仰義認論」――無条件・無制限に罪人を「ゆるし」――「人をだめにしてしまうかもしれない程のゆるし」(青野)――「しかり」を与える神を信じるということは、まさに「アッバ」と呼ばれるにふさわしい母性原理の神に信頼することだからです。

前述のとおり井上神父は、『ルカによる福音書』一八章の三つのペリコーペの並び方を見据えて、<金持ちの議員>の「中心点」は、
<人にはできない事も、神にはできる>(二七節)
――人の知恵にはどんなに不可能と思えることも、神には可能なのだ、というエスの言葉にあると結論づけました。そのことと、神が、先の「信仰義認論」にあるような、無条件・無制限の「ゆるし」を与える母性原理の神――アッバであるということとを考え合わせるならば、次のよう言うことができるのではないでしょうか。

すなわち、わたしたちは安んじて、自らの計らい――「エゴイズムに汚れているこんなわたしではダメだ」という恐れをこえて、「童心・赤子」の心に帰って、テレジアのように大胆に、いわば図々しく、このダメなわたしを委ねるべきだということ。そして、
③そのときから、わたしたちの「エゴイズム」や「汚れ」は「神がご自身できれいにしてくださるのだ」ということです。

これを、現在のわたしなりに敷衍すれば、むしろ、「エゴイズム」や「汚れ」をこえて、あるいはそのままで、十字架のイエスに示された、アッバの無制限・無条件の「ゆるし」と「しかり」のなかに、抱き取られていくのだ、ということになります。その有り難さのなかでわたしたちは、少しずつ変えられ、自己相対化の道を歩ませて頂けるのではないでしょうか。(つづく)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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