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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

平田講座要約(第二九回下~第三〇回上)  

2012・10・6=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

以下の段落は、具体的なことも含めて、井上神父らしさがよく出ているところなので、少しずつ区切って見ましょう。

p・41C
「私たちが神の御手に摂取される」とは、救いのことです。そしてこの傍線部に、はっきりと、イエスの全生涯・苦しみを「通して」私たちが救われるのだ、と言う主張が見えます。

「通して」というのは、私たちとイエスが、同じ人間として苦楽を共にし、一体化、同化するということです。そんなことは畏れ多いという人がいるかもしれませんが、イエスをスーパーマンのように持ち上げてしまうばかりで、人間イエスにならうということがないと、そこのところに親近感といいますか、井上神父の言葉を借りれば、エンゲージできない。あとで青野太潮氏の「私もイエスのように」という話を紹介します。

また井上神父が「贖罪」とか「犠牲」という言葉を使っていないということにも注目したいと思います。少し補足しますと、「贖罪論」は、キリスト教の専売特許のように思われていますが、いろいろな宗教にみられます。パウロは消極的に、ユダヤ教からその伝統を受け継いだだけ、という見方も出来ます。またルカには贖罪論はありません。

しかし、パウロ以降の教会史を見ても、常にユダヤ教的キリスト教への揺り戻し、優位があったと言えます。しかし、律法(行為)義認を否定した信仰義認にこそ、キリスト教の新味があるのだと思います。

私見では、井上神学の立場からこれを見ると、行為義認は父性原理、信仰義認は母性原理に基づくともいえるように思います。

p・41D
これは一九八三年の講演ですが、その十年余り後に行われた「信仰の世界がもたらしてくれるもの」と題した聖書講座の抜粋を、拙著『すべてはアッバの御手に』に載せました。その中に、次のような件りがあります。

「自分の人生が、もっと大きい大自然の命が表現される場だと考えれば・・・・耐えることができる。」(一四六頁)
人の目から見れば、つまらない小さな人生としか思えなくても、そこに「アッバの働きの場」としての意味を思うなら、大きな意味がある。そこに生きて死ぬ意味がある。そのためには、苦しみや挫折を「素直に受け入れる」心、アーメンと同意するということが大切なのだと思います。その根拠は、十字架における神の「しかり」にあります。

毎月の南無アッバの集い&平田講座 於:四谷ニコラバレ 11/23(土)、12/21(土)

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