「南無アッバ」を生きる ホーム » 連載「井上神父の言葉に出会う」 »(35)第31章3~6 「風」第94号2013年夏・秋掲載

日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

(35)第31章3~6 「風」第94号2013年夏・秋掲載  

三 パウロの回心

<「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ>からイエス自らが語った「結論」――だらしない「徴税人」の祈りは神に聞き入れられ、立派な「ファリサイ派の人」の祈りは聞き入れられなかった――によって心を揺さぶられ、ファリサイ派パウロは「回心」した、と井上神父は言います(『キリストを運んだ男』三一頁)。もちろんパウロ自身が、直接イエスの口からリアルタイムにこの<たとえ>を聞いた、というわけではないでしょう。そもそも、パウロが地上のイエスをどれだけ知っていたか、ということ自体が明らかにされていません。しかし直接ではなくても、イエスから強烈な感化を受け「回心」した最初期のキリスト者から、右の「結論」と同じ衝撃を迫害者パウロが受けたであろうことは、十分に想像できます。

以下、神父はこの迫害者であるファリサイ派パウロがどのようにして「回心」に至ったかを、検討していきます。
繰り返しになりますが、件の<たとえ>のポイントとしてイエスが問題にしたのは、ファリサイ派の「人を裁く姿勢」(三三頁)――悲愛の欠如ということでした。曰く、

<一人の人間の生の哀しみや痛みや喜びを、己れ自身の心の鏡にうつし、感じとり、行為することが、アガペー悲愛とよぶイエスのもっとも大切にした心の在り方であり、そこからおのずか自らにほとばしりでる行為であるとするならば、ファリサイ派に欠けていたものは、まさにこのアガペー悲愛の心と行為に他ならなかったのである。>(三五頁)

井上神父はここで、パウロの問題を「主我的段階(主体的段階)」と「無我的段階(逆主体的段階)という、二つのキーワードを使って説明しています。これらの言葉は、前著『人はなぜ生きるか』にも見られますが(一六頁)、ここでは、件の<たとえ>に登場する「ファリサイ派の人」と迫害者パウロが同定され、回心前のパウロは、「自分のために神を求めている段階」=主我的段階にあった、と考えています。それゆえに「無意識のうちに神の座にすわり、他人の弱さや哀しみを裁いて」しまうことになります。

<しかもその主我的段階においては、天に代わるという、傲慢と思いあがりのもっとも大きなあやまち、罪の状態に落ちいるおそれがある。パウロによれば、本当の意味における罪とは唯一つしかない。それは神のまえに己れの義をたてることに他ならない。>(三六頁)

四 二種類の「罪」と「愛」

パウロの「十字架の神学」を精緻に説き明かす青野太潮氏は、パウロ文書における「罪」について、次のように述べています。

<・・・(略)・・・パウロも、この伝統的な贖罪論を多くの箇所で受容してはいるが、しかしそこで前提されている律法違反としての(複数で語られる)罪過とは異なって、彼自身の展開においては常に「罪」を単数で用いることによって、それ以上にもはや分割不可能な根源的な倒錯、そしてそれゆえに人間を支配するひとつの力をそこに見ている。>(『「十字架の神学」の成立』一九八九年、ヨルダン社、四六六~七頁)

あるいは、

<・・・(略)・・・直接的に贖罪論的にイエスの死を解釈する伝承においては、「罪」はすべて複数で語られている・・・(略)・・・それに対してパウロが彼自身の言葉で「罪」に言及する時には、ほとんど常に単数でそれを語っている・・・(略)・・・つまり「罪」が複数で語られる時、それはあれやこれやと数え上げることのできる罪、すなわち具体的な律法違反の罪をさしているのであるが、パウロはそれに対して、もはやそのようには数え上げることなどできず、むしろ人間存在を根源的に規定している罪、それゆえ人間を支配している力としての罪のことを考えているのである。>(同、五〇五頁)

ややしつこく引用しましたが、ここに語られている「二種類の罪」を整理すると、次のようになります。すなわち、①伝統的な贖罪論につながる、旧約の「律法違反」として「あれやこれやと数え上げることのできる」「複数で語られる」罪と、②「分割不可能な根源的倒錯」ゆえに「人間を支配するひとつの力」、「数え上げることができず、人間存在を根底的に規定している」ところの、パウロが常に「単数で語る」罪、ということです。そして井上神父の先の言葉で、「ファリサイ派の人」や「回心前のパウロ」の「主我的段階」として問題になった「傲慢と思いあがり」につながる「神の前に己れの義をたてる」「唯一」の「本当の意味における罪」とは、すなわち右の②の「単数の罪」に同定されるのだと思います。

 この二つの罪の区別は、「宗教」を「倫理」や「道徳」に直結させがちな日本人求道者にとって、重要な示唆を与えてくれているように思います。たぶん、わたしだけではないと思うのですが受洗前後、信仰を持つまでは何でもなかったことが、信仰を持った途端に気になり出す、という経験をすることがありました。
ここでわたしは本稿第一部で、有吉佐和子氏が一九五〇年代に、
<小説を書くようになる前から、・・・(略)・・・教会が示す戒律や規則や信者の義務を果たすことがしんどくなっていた>(『心の琴線に触れるイエス』一一六頁参照)

と言っていたこと、あるいは井上神父が、

<殺すな、姦淫するな、盗むなといったような根本的な道徳律すら、イエスの教えのなかでは決して第一義的なものではない>(『私の中のキリスト』二一頁)

と言っていたことなどを思い出します。こうしたことを取り上げわたしは、「道徳的キリスト教」の問題点を縷々述べてきたのでした。

そして第二部では「復活」解釈をめぐって、井上神学における「罪」概念を模索しました(『すべてはアッバの御手に』二、三)。それらを今思い起こしながら、右の井上神父や青野太潮氏の「罪」解釈を参考にすると、わたしどもが多く「罪」と感じているものの内容は、実はパウロがいう「複数で語られる」罪、すなわち旧約の「律法違反」に相当する、「あれやこれや」の罪(々)なのではないか、と思えるのです。いわば「細則違反」の罪といってもいいかもしれません。

このことからやはり思い出すのは、繰り返し考えてきた「為す愛」と「為さざる愛」に関する問題です。わたしが受洗後の一九八〇年代半ば、「為す愛」にとらわれていたことはすでに詳述しました。しかしそこでわたしが勝手に想定した「為す愛」の内実というのは、右の罪の二分類に類比すると、いわば「複数で語られる愛」――「細目的な愛」――「あれもしなければ、これもしなければ」という気持ちに「焦る愛」だったのではないだろうかと思うのです。

五 <善いサマリア人>に続く<マルタとマリア>

前章で『ルカによる福音書』の<善いサマリア人>について触れましたが、そのすぐ後には<マルタとアリア>(一〇章三八~四二節)のペリコーペが続いています。イエスをもてなすために忙しく立ち働くマルタと、イエスの足下に座って話をじっと聞こうとするマリアの話です。

実は、<善いサマリア人>とそれに続く<マルタとマリア>のつながりについて、だいぶ以前に井上神父に聞いたことがありました。すなわち、<善いサマリア人>と<マルタとマリア>の二つのペリコーペの連続にルカ以後の編集――順序の入れ替えや、間にあった他のペリコーペの削除など――の手が加えられたか、どうかということをです。

なぜ、こんな質問をしたのか、といいますと、はじめて<善いサマリア人>を読んだ(聞いた)とき、わたしたちはどう思うだろうか、ということを考えてみたのです。少なくとも、わたしが最初に思ったのは、以前受け持った「倫理」授業の生徒と同じく「とても自分は、このサマリア人のようにはできない」(「風」九二号、二九頁)、というものでした。多くの読者も同じように思うのではないか、そしてそのことを福音記者ルカもわかっていて、ゆえに直後、<マルタとマリア>を置いたのではないか、とわたしは推測したからです。

この話のマルタは「行いの愛」を、マリアは「心の愛」を象徴している、とよく言われます。わたしの言葉を使えば前者が「為す愛」、後者が「為さざる愛」ということになると思います。そして、直前の<善いサマリア人>を読んだ読者が短絡的に、「行いの愛」=「為す愛」に走ろうとするかもしれない、そのこと(の危険性、と言ったら過言でしょうか)をルカは知っていた。知っていたからこそ、(どちらかと言えば)「心の愛」=「為さざる愛」を促すこの<マルタとマリア>のペリコーペを即つなげたのではないかと、というのがわたしの想像です。

多分に勝手な想像とは思いますが、先のわたしの質問に神父は、〝原ルカ以降に、編集の手は加わっていない〟と答えるとともに、わたしの「想像」にも、〝なるほど〟と言ってくれたのでした。

本稿でも<善いサマリア人>を「行いの愛」「為す愛」に直結させることの危険については既に述べましたが、わたしやマルタの「あれもしなければ、これもやらなければ」という焦りは、やはり「複数で語られる愛」――「細目的な愛」から出たものだったのではないか、と思うのです。そしてそのときは、細目的な愛の律法に違反しているという意識はあっても、その根本を問うような――単数で語られる、「根源的な倒錯」としての罪という感覚は、希薄だったのではないだろうか、とも思うのです。

六 ヨブの回心

自己中心の主我的段階にいる人間は、常に罪の危険にさらされ、「人を裁く」ことになります。これに対し無我的段階とは、「神のまえに自分が相対化される世界であり、自分が従となり、神が主となられる世界」、「我に死んで真の自己に生きる世界」です。ファリサイ派パウロの回心体験とは、この主我的段階から無我的段階へ、自分が主から従へ、「我に死んで自己によみがえる転換」だったのだと、井上神父は考えます(三六頁)。

このあと神父は、旧約聖書の『ヨブ記』をたどって、パウロの回心をさらに深く考えます。それは『ヨブ記』が、「苦」の問題をめぐって、

<主我的段階から無我的段階への宗教的生の深まりを示している不朽の名作である>(三七頁)

と、井上神父は考えるからだといいます。

『ヨブ記』はしばしば、人の善悪に神の正義が対応しているかを問う「神義論」を展開しているといわれますが、神父は著者が当時のユダヤ教に根強い「因果応報的」「御利益宗教的」な考え方に「反論」しているのだといいます。「こんな罰を受けるようなことはしていない」と主張するヨブも、「いや、気づかないうちに何らかの悪事を働いた罰なのだ」と考える三人の友人も、根本は同じ因果応報・御利益宗教的発想に立っているのです。この段階のヨブ――「我」が粉砕される前のヨブは、主我的段階に留まっていたのだと、井上神父は考えます。

かつてわたしは、この『ヨブ記』について、拙著に次のように書きました。少し長くなりますが、再掲させていただきます。
――――――――
【神は答えず】
ヨブ記読む木蓮の花明りかな 大隅圭子
(『福音歳時記』四月)

旧約聖書におさめられている『ヨブ記』――ヨブという善人が次々と災難に遭い、「なぜ、自分は何も悪いことをしていないのに、こんな目にあわなければならないのだろう?」と悩む物語です。

一たす一は二、人間真面目に努力すれば必ずよい報いがある。そういう因果応報的な発想がわたしたちの日々のやる気を支えている、というところがたしかにあります。ですから、突然の事故や病気に遭遇したとき、わたしたちは愕然とし、そして憤慨するのです――「なんでこのわたしがこんな不幸な目にあわなければならないのか・・・・」、「なんであんないい人が早死にするのか・・・・」と。『ヨブ記』のテーマは、民族や時代をこえて語られてきた、人類普遍の問いといってよいでしょう。

『ヨブ記』は難解だとよくいわれます。その難しさは、右の問いに対する答えがはっきりとは示されていない、という点にあります。

ヨブが友人たちと議論を重ねていくと、突然神が次のように答えます。

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。//これは何者か。/知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸(国を治め整えること)を暗くするとは。/男らしく、腰に帯をせよ。//わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。//わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。/知っていたというなら/理解していることを言ってみよ(三八・一~四)。

このあと延々と、さまざまな自然現象や人事について、「~を知っているか?」「~ができるか?」と神の詰問が続きます。そしてとうとう、ヨブは神に降参します。

わたしは軽々しくものを申しました。/  どうしてあなたに反論などできましょう。/わたしはこの口に手を置きます(四〇・四)。
   ・・・・・・・・
あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。/あなたのことを、耳にしてはおりました。/しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。/それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます(四二・二、五~六)。

 しかし「主(神)」は、「善人がなぜ苦しむのか?」という疑問に一般的な答えを提示してはいないのです。ヨブはただ彼の実存において、全能の神の前に右のように応じて黙したのだと思います。そして神はヨブが「正しく語った」(四二・七参照)と認めます。一たす一は二のはずだ、という人間の思いこみや傲慢を捨て、自らの実存のなかで神に人生をゆだねること、『ヨブ記』はそう教えているのではないでしょうか。

 掲句、夕暮れどき「木蓮」の咲く窓辺で『ヨブ記』に読みふける作者。その「花明り」にふと気づいたとき、『ヨブ記』から彼女なりの解答を得たのかもしれません。「かな」には独自な感動が込められています。(『俳句でキリスト教』三二~三五頁)

 「一たす一は二」という合理主義的考え方を人生に持ち込むとき、わたしたちは「因果応報」「御利益宗教」的人生観を持つようになるのだと思います。「主(神)」が、神義論に対して、「一般的な」――合理主義的な答えを提示せず、ヨブが神の前に「黙した」という所に、因果応報説・御利益宗教に対する著者の批判が込められているように思います。この合理主義的な「思い込みや傲慢を捨て」て、「実存の中で神に人生をゆだね」よう、というのが、右のエッセイの趣旨です。

 井上神父によれば、この転換が起こった時、ヨブは主我的段階から無我的段階に移ったことになります。

 <私の理解によれば、初めの頃のヨブは確かに信心深かったけれども、まだ神と出会って己れの「我」が粉砕されるという体験を持っていなかった。即ち、主我的段階にとどまっていたのである。それが、さまざまの苦悩をへて、遂に「神の前に悔い改める」、すなわち無我的段階へと入ったのである。>(三九頁)

神父は、主我的段階から無我的段階へ転換するためには、「神と出会って己れの『我』が粉砕される」――自我が砕かれるという体験が必要だと言っています。(つづく)

category: 連載「井上神父の言葉に出会う」

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