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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

アッバ讃句コーナー(四)=「風」第90号  

主のご復活おめでとうございます。

 東日本大震災三・一一から一年、今この一年を振り返るさまざまな表現活動がなされています。短詩型文学では俳人である長谷川櫂さんが『震災歌集』(中央公論新社)を出したことや、それまで短歌や俳句をまったく作ったことのない被災者が、次々と溢れる思いをこの小さな器に載せて表現している状況が紹介されています(朝日新聞二月二〇日、「短歌」三月号等)。

 湧き上がる思い、やるせなさ、人の優しさ・・・・これらを表現したい、伝えたい、記録しておきたい。そのとき俳句や短歌はやはり、日本人に最も身近な表現手段なのだと、改めて感じています。
 
枝四方に生きよ生きよと枯木立  瀧野悦子
咲き満つるおいきざくら老木桜に抱かるる  相原恭子

老いにまつわる二句。前句は老いの諦観どころか、若きを叱咤励ます元気。
後句は、カトリック六甲教会・二水会合同句集から。

浅ましの老木桜やあす翌が日に  小林一茶
を踏まえた作かと思われます。ただ、この俳諧歌には、「或る山寺に/うつろ木の一なん有ける/今にも枯るゝばかりなるが/さすが春のしるしにや/三ツ四ツふたつ つぼみけるを」とありますが、恭子さんの句では、「咲き満つる」満開! 私たちをも抱きとってくれるほどの頼もしさ。

井上神父に「一本の老木」という詩があります。昨年六月立川教会で、この詩を紹介しながら、久々の講演がありました。以下はその要約です。
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「神様が主人公の私たちの人生」
井上洋治神父(立川教会11年9月広報より)

学生時代に出会ったリジューの聖テレジアの霊性に惹かれて以来、生涯を通して聖テレジアの後姿を追いかけて生きてきたように思います。私は聖テレジアの弟子として八四歳という老年を迎え、長いマラソンの最後に競技場へ入ってきたような今、八四歳ならではの話をしたいと思います。

 「厳しい冬の青空を背にして葉を落とし
  たった一本でこんなところに立っている
  老木よ」、で始まるこの詩は風の家を始めた五十代半ばの張り切っていた時代に書きました。
若い自分が寒さに震えて立っている老木の姿に感動して書いたのですが、今私はその老木になっています。外から老いを眺めることと、実際に老いを背負って生きていることは全く異なります。

 老いというのは若いときには自分のものだと思っていた視力や健康を少しずつ神様にお返ししながら生きているということです。人の為に何かする、役に立つという根底の生きがいすらお返ししています。若い人に“老い”というものをどうしても理解してもらえない、一人ぼっちになってしまうという恐れもあります。年のせいで団欒の中に入れない、大勢の中の孤独感は辛いものです。ついこの前までできていたことができなくなるのも辛いです。そうしたことで落ち込んだ時には地動説を唱えたコペルニクス的転換が必要です。

 アウシュビッツに収容されていた精神科医のヴィクトル・フランクル著、「夜と霧」は人間の限界状態の中で書かれたものです。自分が人に何ができるか、喜んでもらえるかということを考えていては収容所では生き延びることはできません。何もできないけれど、苦しいけれど、家族や友人が私にどう生きて欲しいと思っているか、その人たちの眼差しを感じられれば生き延びることができたというのです。

 私たちに何ができるか、役立つかを考えることが難しい時に、他者(神様)の眼差しを思い、その眼差しを受け止めれば、そこに人生の意味が現れてきます。現実に何もできなくなっても、他者の気持ちを受け入れるところに人生の意味があるのです。

 “自分が何をするか、社会で役立つか”ではなく、神様がその人を通して何を伝えようとしておられるのか、神が望まれることをする場が人生なのです。粗大ゴミになっていく自分になんの意味があるのかと思い煩わず、神が私という作品を作りそれを使って神の望みを示しておられるということに気付き、考えをそのように転換しなければ、老いの虚しさはなくなりません。

 聖テレジアは神が作られた大自然の中の小さな白い花になり、神が語られることを示していきました。
 「南無アッバ」と唱えてアッバ、お父ちゃんに全てを無心にお任せして生きていきましょう。
 「山路きて なにやらゆかし すみれ草」
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 その他の作品を紹介します。

  寄り添ひて咲く山茶花の絆かな  西川珪子
  子規庵の玻璃に明治の冬日影  広谷和文
  実行は難しいです南無アッバ  フランシスカ井上
  春雷や旅の終りを告げ知らす  片岡惇子
十二月八日の空やレノンの忌  新堀邦司
  老いの手におふだ札を握る四旬節  赤松久子
冬のバラおおせのごとし南無アッバ  佐藤悦子
短夜や眠れずひたすら南無アッバ  喜多正規
  天までの梯子となりし焚火かな  佐藤淡丘
  負ひきれぬ罪多けれど春近し  長谷川末子
  祈念せし彼岸の人よ初電話  石川れい子
  救はれて洗礼受けし思ひなり更くる夜星のきらめきて止まず  井口萬里子
  南無アッバ望月輝やき空を統ぶ満たされ祈らむ平安をこそ  魚住るみ子
  実名と事細かなる願い事日夜聞きおり絵馬の神様  平田栄一

 ――アッバ讃句応募規定――
 井上神父の「アッバ讃句」にならい、皆さんの南無アッバの祈りを短い求道詩歌にしてお送りください。「風」読者であればどなたでも応募できます(無料)。「~~南無アッバ」という形のほか、俳句・短歌・川柳・自由律・一行詩などでもけっこうです。採否選者一

category: アッバ讃句コーナー

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