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日本人にわかるキリスト教を求めて

26May2012+011_convert_20120623181132_20120623222548.jpg井上洋治神父は、遠藤周作氏と共に、日本人の感性で正直に受けとめられるキリスト教を一生をかけて模索し、1986年「風の家」をはじめました。このサイトでは、「風の家」運動を引き継ぐ平田栄一が「求道俳句」ほか、日本人キリスト者の道を模索する試みを紹介していきます。お問い合わせ 略歴 著書

南無アッバの集い&平田講座(第二八回)要約  

2012・9・15=テキスト『心の琴線に触れるイエス』

キリスト教における「救い」表現を日本的に考えよう、ということから、日本人キリスト者の例を見てきました。そして最後は遠藤周作さんの『侍』から、日本的信仰の方向性を考えました。

p・38
■復活において完成する救い
佐古純一郎牧師の神学では、わが「罪」の解決に重点があり、それにはまずイエスの「十字架」が必要であるといいます。こうしてそれは「贖い」信仰を強調するものでした。一方井上神学は、「苦」るしみに目が向けられ、そのためには十字架を含めたイエスの「全生涯」に注目することになります。ここから共苦(悲愛)を中心とする神学が展開されます。その結果、どちらかというと「十字架より復活」というニュアンスが強くなります。

ちょっと補足になるかどうか、最近わたしは、青野太潮先生というパウロ研究者(前回触れた田川建三さんのICU=国際基督教大学での教え子)の「十字架の逆説」という考えに惹かれています。その青野先生によると、「十字架」が「贖罪」に直結するという記述は、実は新約聖書には一つもない!というのです。そうではなくて、イエスの「死」が「贖罪」に結びつく。だから少なくともパウロ神学を考えるときは、まずイエスの十字架と死は区別しなければならない、と。

さらに余談ですが、作家の高村薫さん――『マークスの山』の直木賞作家ですが、この方が「中央公論」五月号で、「宗教は日本を救うか」というテーマで書いています。そこで御自身が浄土真宗に生まれ、カトリックからプロテスタントを経て――この方もICU卒ですが――高村氏が、なぜ最後に禅宗に行ったかということを振り返って述べており、大変興味深く、傾聴に値します。

その中で、日本人はなぜキリスト信者にならないのか、という問いに、「原罪」や「贖い」という考え方を受け入れがたいこと、そして「摂理」信仰も受け入れられない、といったことを体験的に述べています。
わたしには、先の青野先生の主張と共に、この高村氏の考えも井上神学を補足しているように思われます。

category: 南無アッバの集い&四谷講座

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