「南無アッバ」を生きる ホーム » 平田栄一求道詩歌(1) »神のいつくしみの主日

神のいつくしみの主日  

新緑のざわめきこそばゆい花水木

福音書読むタガログが鳥のさえずり

トマの指に触れる神の慈しみの日


関連記事


category: 平田栄一求道詩歌(1)

tb: 1   cm: 2

コメント

拙いブログをトラックバックさせて戴きました。

余白様、こんばんは。 
 井上神父様を通してイエス様の弟子になられた皆さんの集まりは温かい思いやりに満ちて、大変居心地がよろしいですね。あり難く存じております。
 私の受洗の決意のときは神父様その方のお人柄に惹かれるということではなく(深い信仰をお持ちでも近寄りがたい方でしたから)、色々な方から「○○神父様と出会わなかったら受洗していなかった。」と伺って、そういう「入り方」もあるのだなあ、と不思議に思ったものでした。けれど、先生の井上師との出会いの経緯を読ませて戴き、そういう「○○神父様」的な方は、限りなくイエス様に同化されていらっしゃるのかもしれない、と感じました。この結論も天国で聞かせて戴けるのだと思いましたが、限りなくイエス様の在り方に近い方がこの世にいらっしゃるのも良いなあ・・と感じたのは、「人間を始めて」あと1ヶ月余で半世紀になる今、初めてのことでした。ありがとうございます。はなみずきの花は清楚でやさしくてほっと致しますね。主のいつくしみへの感謝のうちに。

色鉛筆 #- | URL
2006/04/23 23:42 | edit

色鉛筆さん、ありがとうございます。

そうですね。カトリックでは、「難しいことはわからないけど、神父の人格に信頼して・・・・」という入り方は、けっこう多いかもしれません。
これはよく誤解されて、「人間を神のように崇めている。。。」みたいな批判を受けますが、そうではないと思います。
イエスを、キリストを一生かけて生きた人を尊敬し、少しでも習う、ということはけっして偶像崇拝ではありません。
私たちは人間である限り、抽象的な「愛」を生きられず、具体的な目の前の人を愛することを学ぶのと、同じようだと思います。
私どもにはとても難しいですが、少しでもイエスに似たものにされる、ということは、アッバのお望みでもあると思うのです。

余白 #oBO5MkqQ | URL
2006/04/24 11:59 | edit

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://yohaku5.blog6.fc2.com/tb.php/244-d79a7585
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

黙々と包丁を研ぐ日曜日・研ぎながら思うこと

しばらく、包丁を研ぐのを怠っていた

12色の色鉛筆 | 2006/04/23 23:12

日本人にわかるキリスト教を求めて

南無アッバの集い&平田講座

求道詩歌誌「余白の風」

最後の南無アッバミサ

全記事表示リンク

リンク

検索フォーム

▲ Pagetop